元禄15年2月15日に、山科の大石内蔵助邸で開かれた会議が、いわゆる「山科会議」と呼ばれています。
今日は、その「山科会議」について書いてみたいと思います。
江戸会議が終わった後も江戸に残った原惣右衛門と大高源五は、12月25日に江戸を発ち、のんびり東海道を旅して、伊勢神宮も参拝して、京都についたのは翌年元禄15年(1702)正月9日でした。
そして、早速、山科の大石内蔵助を訪ねて行きました。
そこで、原惣右衛門は、大石内蔵助に、早急な決行を迫ります。
これに対して、大石内蔵助は、それでは、上方の同志に集まってもらい、ご意見を聞いてみましょう」と言いました。
そして、2日後、すなわち正月11日に、小山源五右衛門、進藤源四郎、小野寺十内などが大石内蔵助邸に集まりました。
しかし、結論は出ませんでした。
3日後の正月14日は、浅野内匠頭の月命日であるため、大徳寺塔頭の瑞光院の浅野内匠頭のお墓に詣でて寺井玄渓宅に立ち寄り、相談しました。
2月15日に、再び山科の大石内蔵助邸に集まりました。これが、世にいう「山科会議」です。
参加者は、明確に書いた物はありませんが、吉田忠左衛門、原惣右衛門、大高源吾、近松勘六、潮田又之丞、中村勘助らが集まったと書いた本【図解雑学「忠臣蔵」】もあります。
この会議では、原惣右衛門や大高源五たち急進派は、江戸会議で決めたとおり討ち入りの決行を迫りました。
これに対して、大石内蔵助は、浅野大学の安否を確認した後で決行すると主張し譲りませんでした。
大石内蔵助は、閉門は三年で許されるのが普通であるから、浅野内匠頭の三回忌までは待つべきであるという考えでした。
そのため、最終的には、「大学の処分を待って事を起こす」という大石内蔵助の考えに従うことが決議されています。
原惣右衛門、潮田又之丞、大高源五、中村勘助は2月21日に堀部安兵衛と奥田孫太夫に「赤穂以来一緒にやってきた大石内蔵助を外すことはできないので、仕方なく大石内蔵助の意見に従うことにした」と書き送っています。
大石内蔵助の提案を、堀部安兵衛や原惣右衛門が受け入れたのは、討ち入り賛同者が集まらず、上方の人数が必要だったからです。
この決定について江戸急進派は納得しないだろうと思われました。
そこで、江戸急進派に、この会議の決議を知らせて、江戸急進派の暴発を抑えるために、吉田忠左衛門と横川勘平が派遣されました。
画像は、大石内蔵助の家紋と言われている「右二つ巴」です。