8月23日に始まった籠城戦も、9月に入ると、新政府軍の攻勢が強くなります。
籠城戦開始の頃は、主力軍が藩境に出動していて、城内には婦女子・老兵が中心であった城内も、主力軍が、順に帰城することによって、城内の軍勢は充実してきました。 その数は3000名ほど。
一方、新政府軍のも戦力を増援してきて、その数は、正確には不明なものの、3万人程度と書いた本もありますので、相当の数が会津若松城を包囲していました。そして、新政府軍は、9月14日からは砲撃中心の攻撃を繰り返し,9月17日一日に撃ち込まれて砲弾の数は2700発も撃ち込まれたとも言われています。
こうしたなかで、それまで会津若松城の補給路として確保されていた若松城の南側も、新政府軍の攻勢により、補給路が危うくなってきました。
そこで、補給路の維持のため、会津藩は、軍勢を城南に繰り出しました。
9月14日、会津藩の一瀬要人と萱野権兵衛が率いた部隊は、若松城への兵糧補給路を絶とうとする新政府軍を一ノ堰(いちのせき)と呼ばれる城から数キロメートルの場所で攻撃します。これが「一ノ堰の戦い」と呼ばれる戦いです。
最初は、会津藩の優勢で推移しましたが、軍勢を増援した新政府軍は新たに会津側を攻撃し、最終的に会津側は撤退を余儀なくされました。
これにより、若松城の城下周辺の会津側は一掃され、城への補給路は遮断されてしまいました。
この「一ノ堰の戦い」に八重の父山本権八は玄武隊の一員として出陣していましたが、八重の願いもむなしく戦死してしまいました。享年60歳でした。
山本権八の墓は、山本家の菩提寺の会津若松市内の大龍寺でなく、一ノ堰の光明寺にあるようです。
9月に入って奥羽越列藩同盟の各藩も劣勢になっており、食糧の補給路も断たれ、籠城戦は限界に達しつつありました。
籠城戦が始まってまもなくの9月5日、秋月梯次郎、手代木直右衛門らが米沢城に援軍を求めていました。
これに対して、米沢藩は逆に降伏を勧めたといいます。 秋月梯次郎と手代木直右衛門は、若松城に戻り、藩主容保に報告し、城内で議論しましたが、恭順派と主戦派で議論が沸騰し結論がでませんでした。
新政府軍が攻勢を強める一方、会津藩が頼りにした米沢藩は9月10日に最終的に新政府軍に降伏しました。
そして、新政府軍の命令により、会津藩攻撃の軍を派兵する事態となっていました。
そして、「一ノ堰の戦い」以後若松城への補給も厳しくなっていました。
こうした、情況をうけ、若松城内でも次第に降伏論に固まってきました。
ついに容保は、9月19日、秋月と手代木を派遣し、米沢藩を通じて降伏願いを土佐藩に提出しました。
これに対して、新政府軍の板垣退助は降伏の条件を提示しました。
その条件は次の内容でした。
一、大手門に降伏と書いた白旗を掲げること
大旗に降伏の二文字を大書きし、大手門外に立てる。諸隊はこれを合図に発砲をやめる。
それから一時間後に重役は礼服を着し、兵器を一切持たずに罷り出る。
二、肥後父子(容保・喜徳)、刀を小姓に持たせ、嘆願書を持参する。
三、肥後父子は、出城の節は、20人ずつ随従、臣下は脱刀のこと
四、城中の兵士は追々出城苦しからず。
五、城中男幾人、女幾人、他邦脱走者幾人を帳面に差し出すこと
六、14歳以下と60歳以上ならびに婦女子は城外に退いてよい。
七、男子は追々出城の上、猪苗代に移る。
八、城中滞在の患者は青木村(小田山西麓)に退く。
容保は、こうした条件を飲むことを決断しました。
そして、降伏の印である白旗の製作の指揮をとったのは照姫でした。
旗の大きさは、長さ三尺、幅二尺でしたが、この大きさの白旗は城内にありませんでした。白木綿は、包帯として負傷者の看護に使い果たしていました。
そこで、照姫は小切れを多数集めさせ、それを縫い合わせ、ようやく一枚の大旗に仕立てたました。
明治元年(1868)9月22日、ついに若松城の大手門に白旗が揚がりました。
1ヶ月間の籠城戦が終わったのでした。
右下段写真は、大手門前近くみた若松城天守閣です。

