1カ月にわたる会津若松城における籠城戦が終了しました。
降伏した時に、若松城に籠城していた人たちは、ある史料では4956人であり、別の史料では5235人と数には違いがありますが、おおよそ5千人の人が籠城していたという点では喰い違いはないようです。
5千人もの人が籠城していたことがすごいですね。また、大砲50門、小銃2845丁、銃砲弾は23万発ありました。
多くの武器が残っていたようですが、特に銃砲弾23万発というのがすごいと思いますが、銃砲弾の多くは、新政府軍が撃ち込んだ砲弾を溶かして、再製したもののようです。 敵の武器を自分の武器にしてしまう「強かさ」がすごいと思います。
会津若松城を包囲した新政府軍は、最終的には3万人余りと言われています。
これだけの人数に包囲されながら、一か月間もの間籠城できたことには驚かざるをえません。
それは、戊辰戦争で、攻略された城と比較すればよくわかります。
新政府軍に攻撃された多くの城が短期間で落城しています。
例えば、白河城は5月1日や二本松城は7月9日にわずか一日で落城していますし、 越後の長岡城も5月19日に一日で落城しています
これらに比べと、会津藩がいかに長期間にわたって新政府軍の攻撃を凌いだいたかがよくわかります。
新政府軍は、他の城攻め同様に、若松城下に侵攻したその日のうちに落城さえようと、甲賀町口郭門と六日町口郭門を破って、郭内に侵入し、一気に北出丸まで接近しました。しかし、北出丸まで、一気に侵攻しながら、その日のうちに若松城を攻略できませんでした。
その理由を考えてみました。
理由の第一は、若松城の堅固さです。
若松城は、本丸、二の丸、三の丸、北出丸、西出丸、はそれぞれ死角のないように築かれていました。
その代表的な部分が、北出丸にある大手門(右中段写真)です。
この大手門は、右図のように、大手門に侵入した敵方は、北出丸、本丸、二の丸の三方から攻撃されるよう構造となっています。このような構造のため、北出丸まで進出した新政府軍に対して、要所々々から銃弾がひっきりなしに飛んでくるため、一気の攻略は無理と考えて、郭外に後退しました。
この戦いには、山本八重の働きが大きかったことを付け加えておきます。
また、会津若松城の天守閣が多くの砲撃を受けて傷つきながらも、破壊されませんでした。
このことでも明らかなように、当時の大砲では、会津若松城ほどの大城郭は完全に破壊できる力はなかったといえます。
そのため、火災が起きない限り、城内の建物は砲撃による破壊に耐えたと思われます。
理由の第二は、補給が途切れなかったことです。
新政府軍は、最終的には3万人を超える軍勢だったと言われていますが、これだけの軍勢でもっても、補給路を完全に遮断できませんでした。
城の東・北・西側は包囲できましたが、南側の補給路は、会津藩の降伏直前まで、会津藩がほぼ確保していました。
ここを通じて、城外にいた兵士たちも続々帰城してきましたし、食料もここから補給されました。
降伏直前こそ食料が少なくなってきたものの、5千人もの食料を約1か月間確保できたことが大きかったと思われます。
このように、会津若松城での籠城戦は、最後には降参したとはいえ武勇を誇る会津藩の底力を示すものとなりました。

