大変楽しい旅行となりました。その話は後日書きますが、昨日の「八重の桜」関連の記事を書きます。
ついに、「八重の桜」も会津戦争が終結しました。
いよいよ、舞台は、ふたたび京都になっていくようです。
今日は、萱野権兵衛についてお話したいと思います。
八重の桜では、柳沢慎吾が演じています。
一貫して、まじめに演技しているのが印象的でした。
萱野権兵衛は本名は萱野 長修(かやの ながはる)で、会津戦争当時、会津藩家老です。
萱野権兵衛は、天保元年1830)に生まれ、元治元年(1864)若年寄になり、翌慶応元年(1865)に家老に任じられました。権兵衛は、温厚篤実で、地味なタイプだったようです。
藩政面では、主に会津国元にあって留守をしっかり守り、京都の会津藩の動きをバックアップしていました。
戊辰会津戦争が始まった頃の家老の席次は、筆頭家老が田中土佐、2番目が西郷頼母、3番目が神保内蔵助、そして、4番目が萱野権兵衛でした。
8月21日、新政府軍によって会津藩の東部国境が突破された時には城外に出ていました。
この時、田中土佐・神保内蔵助も城外で戦いましたが、この二人の家老は、城下に新政府軍が侵入するのを防げなかった責任をとって自刃しました。
その後まもなく、西郷頼母も城外に追放されました。
残った萱野権兵衛は、1か月の籠城戦の際は、主として城外で指揮し食料の補し続けました。
しかし、籠城1か月にして若松城はついに開城となり、9月22日の午前十時、鶴ヶ城に白旗があげられました。
降伏式には、会津藩からは松平容保・喜徳父子と一緒に萱野権兵衛も出席しました。この際に「戦争責任は家臣にあるので、容保父子には寛大な処置を」という内容の嘆願書を提出して式は終了しました。
萱野権兵衛はまもなく、江戸に送られる容保の一行と共に会津を離れ、江戸の久留米藩有馬家に喜徳とともに謹慎しました。
新政府軍では直ちに会津藩の戦争責任が追求されました。
その結果、「松平容保の罪を一等さげ死罪を許すが、会津藩により首謀の者を出頭させるべし」との命が下されました。
このとき名乗り出たのが萱野権兵衛でした。 「会津藩では家老田中土佐・同神保内蔵助・同萱野権兵衛の三人が戦争を指導した。しかし土佐と内蔵助はすでに切腹しており、権兵衛が謹んで裁きをうける考えである」と申し出て、会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けたのでした。
そして明治2年5月18日、権兵衛に対し切腹が命じられました。
実は、新政府の命令は「斬首」だったそうですが、萱野権兵衛の名誉を重んじ「切腹」が許されたと言われます。
切腹の場所は飯野藩保科家とされました。
飯野藩保科家は、会津藩松平家の親類大名で、照姫は上総飯野藩前藩主保科正丕(ほしな まさもと)の娘で、飯野藩保科家から会津藩に養女として入った関係があります。
やがて、有馬家に権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科家から迎えが来ました。
萱野権兵衛は、保科家で、松平家の家臣たちに別れをつげ静かに別室に入り、見事な最期を遂げました。
時に権兵衛享年41歳でした。
萱野権兵衛の遺体は、保科家により、白金の興禅寺に運ばれて埋葬されました。
権兵衛の墓は、興禅寺の墓所入り口に、神保修理の墓と並んであります。(上段写真)
興禅寺のお墓には、萱野権兵衛の諱(いみな)が刻まれています。
また、墓は会津若松市の天寧寺の萱野家の墓所にもあります。(下段写真)
こちらには、「報国院殿公道了忠居士」という戒名が刻まれています。
天寧寺の墓は、明治29年に妻のタニが亡くなった後、二人の戒名を並べて刻んで建てたのだそうです。
現在も5月18日には墓前祭が行われているそうです。

