このブログは、基本的に「江戸」に関するブログですが、暫くは、「江戸」の延長として、明治に入っての「八重の桜」を追いかけてみます。
今日は、「山川大蔵(浩)」について書きます。
山川大蔵は、弘化元年(1845)、山川尚江重固(しげもと)の次男として生まれました。
姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に大山捨松らがいます。初名を大蔵(おおくら)といいました。浩は明治以降に改名したものです。右写真は、山川大蔵の生誕地と思われる場所、会津若松城近くにあます。
山川大蔵が、会津戦争当時、小松獅子を先頭にして会津若松城へ入城した場面は、まだ記憶に新しいと思います。
こうした作戦や日光口での戦闘指揮から、山川大蔵は、軍事の天才と呼ばれました。
鶴ヶ城入城後は、本丸におって軍事総督として、軍事面での指揮をとりました。
政務は、梶原平馬が執りましたので、会津若松城籠城戦の後半は、政務・軍事ともに、20代の若い家老が指揮を執ったことになります。
しかしながら、会津若松城は、明治元年9月22日に開城します。
そして、会津藩士たちは、猪苗代、塩川で謹慎をした後、明治2年1月に、東京と越後高田の収容所に送られました。
明治2年9月になると、会津藩の家名再興が許され、11月に、松平容保の実子容大(かたはる)を当主として立藩が許されました。
この時に、旧会津藩の領地の候補として、二つの土地が示されました。
一つは猪苗代で、もう一つが陸奥三郡でした。(陸奥三郡が後に「斗南」と命名されました。斗南とは「北斗以南皆帝州」という言葉から採ったとされています。
どちらを選択するかは、旧会津藩で議論が紛糾しました。山川浩【明治になって改名】らは斗南を主張しました。
一方、猪苗代は、旧会津藩領ですので、こちらを主張する人もいました。
しかし、山川浩は、斗南に決定しました。
なぜ、山川が斗南に決定したかは、史料が少なく、その理由は、はっきりしないそうです。
ただ、猪苗代は土地が狭く、会津藩士一族を養うには不足するが、斗南は厳寒不毛のちであるが開拓可能であり、その可能性にかけたとも言います。
また、あえて過酷な道を選ぶことが、「家名再興」を許してくれた新政府に対して「忠誠」を表す選択肢だったのではないかという意見もあるようです。
山川浩は、斗南藩立藩後は実質的な最高責任者である斗南藩権大参事として、藩政を執りしきりました。
右写真は斗南藩庁が置かれていた円通寺(むつ市)です。斗南には1万7千人余りの旧藩士とその家族が移り住みましたが、斗南での暮らしは、昨日の「八重の桜」でも描かれていた通り、非常に厳しいものでした。
そもそも旧会津藩は23万石でしたが、斗南藩は表面でも3万石と大幅に領地が削減されました。しかも3万石とは表面的な数字で、実質は7千石という大変厳しいものでした。
そして、土地は厳寒不毛の荒涼とした土地でした。
そこに、1万7千もの人々が移りすんだため、多くの藩士が、飢えや病気により命をなくしました。
そのため、昨日、日向ユキが言っていたごとく、会津戦争で苦しんだ藩士たちを、さらに苦しませる結果となりました。
山川自身も、後に大山巌の妻となる妹の咲を函館に里子に出さざるを得ませんでした。
結局、斗南藩は、明治4年7月の廃藩置県により、弘前県に吸収され、廃藩となり、2年に満たない短い期間しか存続しませんでした。
廃藩置県後の藩士の行く末は、詳細はわかりませんが、会津若松旅行中に乗ったタクシーの運転手さんの次の話が印象に残りました。
「会津若松には、会津藩士の人たちの子孫は少ないのです。降伏後、士族は東京に送られましたし、その後、斗南藩に移住した人たちが多かったためです。
ですから、旧会津藩士の人たちは、会津若松での活躍もありますが、東京や青森で名を遺した人たちが大勢います。
青森の教育界では、会津出身の人が大勢いると聞いています。」
自宅に帰り、「会津戦争のすべて」という本を読んでいると
「明治5年に学制の令が出ると会津藩士たちは続々と教員に採用されて、そのためもっとも遅れていた斗南地方の義務教育が西武の津軽地方に追いつくことができたという。」と書かれていました。
青森で教員として活躍した会津藩士も多くいたようです。
さて、山川浩も、廃藩置県により、青森県(弘前県の後、まもなく設置された)に出仕しましたが、1か月後に辞表を提出し、東京に出ました。しかし、上京したものの、生活は改善せず、しばらく窮乏生活が続きます。
そして、山川浩が再び活躍するのは、西南戦争の時ですが、それについては、「八重の桜」でも取り上げらると思いますので、改めて書きたいと思います。

