大山捨松は、大山巌(八重の桜では弥助)と結婚した後の名前で、幼いころは、「山川咲子」と言いました。
万延元年(1860)に、会津藩家老山川重固の末娘として生まれました。
「山川浩」や山川健次郎の妹です。
山川咲子が、生まれた場所には、説明板が立てられていました。(右写真)
会津戦争が始まった時、咲子は8歳でした。咲子の母山川艶は、咲子にも自決の方法を教え、死ぬ覚悟で籠城戦を戦いました。
その籠城戦も9月22日に会津藩が降伏して終了しました。
籠城していた藩士は猪苗代で謹慎となり、婦女子は塩川で謹慎となりました。
山川家の女子も塩川で謹慎しました。
そして、明治2年11月、斗南藩が興され、会津藩士は斗南に向かいました。
山川浩が大参事となり、山川の婦女子も田名部に向かいました。
しかし、斗南での生活は厳しく、咲子は函館の知人に預けられました。
斗南よりは幾分ましな生活をさせたいと考えたからのようです。
明治4年に新政府は、女子教育の必要性を認め、幼い女子を欧米に留学させることにしました。
留学期間10年間、往復旅費・学費。生活費は国が負担し年間800ドルの小遣いを支給するという条件でした。
これに応じてきたのはたった5名でした。
吉益亮子15歳、上田貞子15歳、山川捨松12歳、永井繁子9歳、津田梅子8歳の5人です。
この時に、山川咲子は、「国のために捨てたつもりで、帰りを待つ(松)のみ」との母の思いから「捨松」と改名させられます。
5名の留学生は、出発に先立ち、振袖をきて宮中に参内し皇后陛下に拝謁しています。
明治4年11月20日、岩倉欧米使節とともに4500トンの郵便船アメリカ号で横浜港を出発しました。
一行をのせた船は、12月6日サンフランシスコに到着し大歓迎を受けました。
5名は使節団一行とここで別れ約半年間、英語の勉強のため共同生活を送りましたn。
しかし、吉益亮子と上田貞子は健康を害して10月に日本へ帰国しました。
残された3人は、それぞれ親日家のアメリカ人に引き取られ留学生活が始まりました。
昨日の「八重の桜」では、この時期の山川咲子が描かれていました。
この後、山川咲子は11年間の留学の後明治15年に帰国します。
帰国して早々に大山巌との縁談話が持ち上がります。
そこで、家族は猛反対しますが、大山の熱意に根負けし、16年陸軍卿大山巌と結婚しました。
そして、いわゆる鹿鳴館時代には社交界の中心として活躍し「鹿鳴館の華」と呼ばれました。
その話は、後日また書くことになると思いますので、詳しくはその時に書きます。