通常の会津若松の観光ルートではないと思いますが、神式の墓地は滅多に見られないので、会津旅行の2日目の朝一番に受講生の皆さんと行ってきました。
「会津藩主松平家墓所」は、会津若松市の院内山と猪苗代町の見禰山(みねやま)の2ヶ所の総称で昭和62年5月に国の史跡として指定を受けています。
院内山の墓所は通称「院内御廟」と呼ばれ親しまれていますが、その面積は約15万平方メートルと広大です。
寛永20年(1643)に会津に入封した初代の保科正之公は、猪苗代の土津(はにつ)神社に祀られ、ここには、2代保科正経から幕末の9代容保までの墓があります。
3代以降の墓所は「入峰墓所」と呼ばれています。今回は、この「入峰墓所」を訪ねました。
院内御廟は、会津藩初代の藩主・保科正之(ほしなまさゆき)が最初の子だった正頼が亡くなった明暦3年(1657)に正之が開設したものです。
2代藩主・正経から9代の松平容保までの墓とそれ以後の松平家の墓があります。
正之自身のお墓は猪苗代町の土津(はにつ)神社にあります。
2代藩主・保科正経は仏式によって葬られていますが、3代藩主・松平正容(まさかた)から9代の容保までは、全て神式で埋葬されています。
松平家の墓所は、まず巨大な碑石(ひせき、いしぶみせき)があります。碑石は墓誌石ともいい、故人の姓名、生い立ち、経歴、業績などが刻まれています。
その碑石の奥に灯篭が対に並び、その奥に、表石(ひょうせき、おもていし)があります。
表石には、故人の生前の名前と官位・身分が刻まれています。
その奥に、八角形をした鎮石(しずめいし、ちんせき)があり、これが実際のお墓です。
右最上段が、8代容敬のお墓ですが、手前に碑石、灯篭、表石と並んでいるのがわかると思います。
藩主のお墓は三のグループに分かれています。
もっとも東にあるのが8代容敬(かたたか)と4代容貞(かたさだ)のお墓
中央にあるのが、3代正容(まさかた)、5代容頌(かたのぶ)、6代容住(かたおき)、7代容衆(かたひろ)のグループです。
そして最も奥に、9代容保とその後の当主のお墓があります。
右上の写真は、手前から5代容頌(かたのぶ)、6代容住(かたおき)、7代容衆(かたひろ)の碑石です。
神式のお墓は、亀石(亀の形をした石)を台座とした碑石(ひせき)が前面にあります。
右下写真は、3代正容の碑石です。歴代藩主の碑石の中で最大のもので高さが5メートルもあります。
写真に写っている人物と比較すると、碑石の大きいのがわかると思います。
亀石は、亀趺(きふ)ともいわれ、中国の空想上の動物で、竜の子を表し、死者の霊を守っています。
松平家墓所の亀趺は、頭がすべて初代正之が眠る猪苗代町の方向を向いています。
亀趺は、別名「贔屓(ひいき)」と言います。
「贔屓の引き倒し」という諺がありますが、その諺は、これから生まれたという説もあります。
柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れることに由来しています。
ここには明治26年に59歳で亡くなった松平容保のお墓もあります。
歴代藩主と同じ作りですが、歴代藩主よりはるかに小さくなっています。
写真右手にあるのが表石で、中央奥にあるのが鎮石で、ここに埋葬されています。
碑石は、写真には写っていませんが、表石の前にあります。