会津旅行の際には、院内御廟から行きましたが、通常は、鶴ヶ城から歩いていくことが多いように思います。
ここでは、下見の時にお世話になったボランティアガイドの飯田さんにガイドしていただきました。
園の歴史や、庭園の説明、そして薬草の話など、幅広い話題の説明をしていただきました。
さすが、地元に住んで長年ガイドをしている方の説明は素晴らしいと大変感心しました。
飯田さんには度々お世話になりました。本当にありがとうございました。
御薬園は、もともと、南北朝の時代、葦名氏7代直盛が会津を治め始めた頃に起源がさかのぼるそうです。
直盛の館近くに、鶴が十数羽舞い遊ぶ泉があり、ある時、その泉で介抱された農民の病が治りました。
そうしたことから、その泉は鶴ヶ清水と名付けられました。
そして、10代葦名盛久が、その霊泉の湧きだした地に別荘を建てたのがはじまりだそうです。
その霊泉は、心字池のほとりにあり、現在も水がわき出ています。
ガイドなしで廻ると見落としてしまうような場所ですが、飯田さんのガイドでしっかり見ることができました。
その後、各領主の時代には荒廃していましたが、保科正之が入封した後、庭園を整備し保養所としました。
さらに、2代藩主保科正経が、漢文10年(1670)に、園内に薬草園を設け、各種の薬草栽培を試みました。
その後、3代藩主松平正容が貞享年間に朝鮮人参を試植し、その栽培を民間に広く奨励しました。それが「御薬園」という名前の由来となっています。
現在の庭園は、元禄9年(1696年)、正容が、園匠の目黒浄定を招き、小堀遠州の流れをくんだ本格的な回遊式の庭園に大改造したものだそうです。
中央に心字の池を配し、その中央に亀島と楽寿亭が置かれています。(右上写真)
「楽寿亭」という名前は、3代藩主正容によって付けられたものです。
「御茶屋御殿」は楽寿亭と同じく元禄9年(1696)に建てられました。
京都守護職から会津に戻った松平容保は、恭順の意を示すため、鶴ヶ城には入城せず、ここで暮らしました。
会津戦争の時には、ここは新政府軍の負傷者の手当てする場所として利用されています。
明治になってからは、松平容保一家が一時期、この御茶屋御殿に住んでいました。
右上写真は、心字池中央にある亀島からみた「御茶屋御殿」です。
庭園北側には藩政時代の薬草栽培地跡を利用した薬用植物標本園があり、会津産薬草約200種を含め約400種の薬草が栽培されています。
その一画には、大賀ハスが満開でした。
ハスは、蓮根が食用になるほか、下痢止めなどの薬用にも利用されます。
また、乾燥させた成熟果実を蓮実、種子を蓮肉といい、生薬として滋養強壮、利尿、通経などに用いられるそうです。
庭園北西側には9代藩主松平容保の孫にあたる秩父宮妃勢津子妃殿下ゆかりの建物、重陽閣(ちょうようかく)が移築されています。
重陽閣は、勢津子妃殿下がご成婚の際にご一家で宿泊された東山温泉の別棟が昭和48年に移築されました。
もともとは3階建だったものを移築の際に2階建にしたそうです。
妃殿下の誕生日が9月9日であることから「重陽の節句」にちなみ、「重陽閣」と名付けれられたそうです。
「重陽閣」の前には、「プリンセス・チチブ」と名付けられたバラが咲いていました。
「プリンセス・チチブ」は、1971年にイギリス人から秩父宮勢津子妃殿下に捧げられたものだそうです。