お盆が終わると、江戸検の本番まで2か月余りです。
自分の場合、お盆明けからスパートをかけ始めたことを思いだします。
そこで、今日は、忠臣蔵についての第3回目の模擬試験問題の出題です。
正解は、来週月曜日に発表します。
右上写真は、細川家下屋敷跡であり、大石内蔵助はじめ17人が自刃した地跡です。
10月の文京学院大学の「忠臣蔵散歩」でもご案内する予定です。
1、浅野内匠頭長矩の祖父長直の時、浅野家は、常陸国笠間藩から播磨国赤穂藩に転封となります。これは、当時の赤穂藩藩主池田家が改易となったためです。
それでは、池田家の改易の理由は、次のうちのどれでしょうか?
①百姓一揆の発生 ②藩主乱心 ③世嗣断絶 ④御家騒動
2、赤穂藩浅野家は、刃傷事件当時の上屋敷は鉄砲洲にありましたが、鉄砲洲以外にも2か所の屋敷を持っていました。
それでは、浅野家の2か所の屋敷はどこにあったでしょうか?
①赤坂と本所 ②愛宕下と青山 ③麻布と白金 ④ 赤坂と青山
3、浅野内匠頭が切腹した後、田村家から浅野家に内匠頭の遺品が引き渡されていますが、次の中で浅野家に引き渡されなかったものはどれでしょうか?
①大紋 ②太刀 ③小サ刀 ④鼻紙袋
4、大石内蔵助は、伏見の撞木町で遊蕩したと言われています。
それでは、大石内蔵助は撞木町にあった次の店のうちのどの店で遊んだでしょうか?
①桔梗屋 ②河内屋 ③笹屋 ④江戸屋
5、大石内蔵助は、江戸に下向する際に、ある神社に討入の成功を祈願するためにお参りしたと言われています。
その神社とは次のうちどれでしょうか?
①熱田神宮 ②久能山東照宮 ③三島神社 ④箱根神社
6、 赤穂浪士は、江戸に潜伏している際には、変名を使っていました。大石内蔵助は垣見五郎兵衛、大石主税は垣見左内を名のっていました。
それでは、小豆屋善兵衛と名乗っていた人は次のうち誰でしょうか?
①前原伊助 ②神崎与五郎 ③大高源五 ④小野寺十内
7、赤穂浪士は討ち入りの際の注意事項を事前に定めて、「人々心覚」としています。
その中で、ある物を鳴らしたら、それが引き揚げの合図であるとしています。
それでは、引き揚げの際には、何を鳴らすと定めていたでしょうか?
①銅鑼 ②陣太鼓 ③鉦 ④呼び子
8、吉良上野介の本所の屋敷は、表門は東側にあり、裏門は西側の回向院側にありました。
それでは、北側と南側はどうなっていたでしょうか?
①北側は旗本屋敷で南側は道路 ②南側は旗本屋敷で北側は道路
③北側と南側ともに道路 ④北側と南側ともに旗本屋敷
9、討入後、大石内蔵助ら17人が預けられたのは熊本藩細川家ですが、時の藩主は、深夜まで赤穂浪士が到着するのを待っていて、到着早々に対面するほど大変赤穂浪士びいきでした。
それでは、赤穂浪士の討入が起きた時の熊本藩々主で大変赤穂浪士びいきだった人物は誰でしょうか?
①細川忠利 ②細川光利 ③細川綱利 ④細川吉利
10、吉良上野介のお墓は、中野区上高田の萬昌院功運寺にあります。このお寺は、戦後、萬昌院と功運寺が合併してできたお寺です。
この両寺のうち吉良家の菩提寺は萬昌院で、大正3年に牛込から上高田に引っ越してきたものです。
さて、萬昌院功運寺には、吉良上野介のほかに、吉良上野介に大いに縁のある人物のお墓もあります。それは次のうちの誰でしょうか?
①柳沢吉保 ②梶川与惣兵衛 ③多門伝八郎 ④栗崎道有
☆ 正解はこちら ⇒ 忠臣蔵 第3回模擬試験問題の正解