先週、「神文返し」の話まで進みました。「神文返し」により、仇討の意思の固さを確認できた同志たちは、数人ずつ、江戸に下向しはじめます。
まず、大石内蔵助は、閏8月1日に、山科の家を引きはらい、京都四条河原町に近い金連寺の梅林庵に移りました。
こうして、仇討を決意して江戸下向の準備を始めた大石内蔵助に対して、慎重対応を主張する上級藩士たちは江戸下向を延ばすよう大石内蔵助を説得します。
大石内蔵助はこの説得を受け一度は延期を決意したという説もあります。
しかし、上級藩士の意見にとらわれず大石内蔵助は江戸下向を決意します。
これを受けて、それまで行動を共にしていた上級藩士すなわち奥野将監、小山源五右衛門、進藤源四郎、河村伝兵衛たちが脱盟します。
特に、小山源五右衛門は大石内蔵助の叔父であり、進藤源四郎はいとこですので、内蔵助にとっては非常に無念だったと思われます。
しかし、こうした上級藩士が脱盟して大石内蔵助が本当に残念に思った理由は、
「盟約に番頭や物頭がいなければ、浅野内匠頭の家来の扱いが悪いから上級藩士がいないのだと批判されることが残念だ」と語ったように、全藩あげての仇討を構想しており、多くの上級藩士が参加してほしいと願っていたことが実現できなくなったということにあるようです。
こうして、仇討について強い意志を持った同志だけが残り、上方にいる赤穂浪士たちは、数グループに分かれ順に江戸に下向しました。
江戸到着日順に書くと次のようになりますが、これは、山本博文先生著の「赤穂事件と四十六士 (敗者の日本史)」に基づきます。
なお、到着日および人物名が、本によって微妙に異なっています。同じ山本先生の本でも小学館101新書「これが本当の『忠臣蔵』」では到着日・人物が異なっている部分がありますので、念のため付け加えておきます。
閏8月27日
岡野金右衛門・武林唯七が第一陣として江戸に到着しました。
9月2日
間瀬孫九郎・不破数右衛門・吉田沢右衛門が江戸に到着しました。
9月7日
中田理平次・間十次郎・矢頭右衛門七・千馬三郎兵衛が江戸に到着しました。
10月4日
大石主税、間瀬久太夫、大石瀬左衛門、、茅野和助、瀬尾孫左衛門、矢野伊助が江戸に到着しました。
大石主税が、大石内蔵助より先に江戸に出向いたのは、江戸にいる同志たちに、大石内蔵助もいずれ江戸に下るという証を示したことになります。
人によっては主税を江戸の同志に対する「人質」と捉える考えもあります。
10月18日
原惣右衛門、岡嶋八十右衛門、中村清右衛門、間喜兵衛、大高源五、貝賀弥左衛門、小野寺十内、鈴田十八が江戸に到着しました。
10月24日(ただし、10月26日に到着したという本も多い)
大石内蔵助、潮田又之丞、近松勘六、三村次郎左衛門、早水藤左衛門、菅谷半之丞、木村岡右衛門、中村勘助、小野寺幸右衛門が川崎の平間村に到着しました。
大石内蔵助が京都を出発したのは10月7日です。
そして、途中で箱根神社(右上写真)に討入成功祈願をするなどした後、22日鎌倉に入り4日間逗留した後、10月26日に川崎の平間村に到着しました。
平間村は、富森助右衛門が用意した借家があり、そこに一旦入ったのです。
11月初めまで、平間村に滞在し、ここから、大石内蔵助は、討ち入りの準備を指示します。
そして11月5日、江戸に向け出発しました。
平間村から大石内蔵助が同志たちに指示したことが赤穂市編纂「忠臣蔵第3巻」には 川崎之宿脇平間村より内蔵助一味之衆へ遣申候書付之写」として収録されています。
主な内容は次の通りです。
1、討入の際の衣服は黒い小袖、合言葉はおって連絡する。
1、道具は各自の自由である。
1、無用な他言、一家親類の間の連絡も無用とする。
1、もし道路で吉良上野介にあっても単独行動はするな
1、場合によっては数日、討入を見合せることもあるので、飢えたりしないよう、普段から衣食遊興などむだ使いしないように心掛けよ。
1、同志が寄り合いした時の雑談、朝暮の言行には慎重に行うようにしろ。
1、吉良親子を討ち取るには吉良方全員を門外に出すな。
1、吉良方の方が大勢いるだろうが、相手が2~3人、こちらが1人で勝負をしても勝利をえると安心している。
これを見ると、計画が吉良方に漏れないように慎重に行動するよう求めていることが注目されます。