金曜日に出題した忠臣蔵についての第3回目の模擬試験問題の正解をアップします。
問題はこちらをご覧ください ⇒ 「忠臣蔵第3回模擬試験問題」
ひまつぶしさんのコメントでは、結構難しいということですので、説明を少し詳しく書くようにしてみました。
右写真は、泉岳寺の大石内蔵助のお墓です。
大石内蔵助の戒名をご存知ですか?
それも必須事項だと思いますので覚えておいた方がよいと思います。
戒名は「忠誠院刃空浄劔居士」です。
1. ②藩主乱心
赤穂事件の時の赤穂藩浅野家の情況だけでなく、浅野家や赤穂藩の歴史も勉強しておいた方が良いと思います。
赤穂藩池田家2代藩主輝興は突然発狂して正室や侍女を殺害し改易となります。そのため、浅野家が笠間藩から転封となりました。
赤穂藩主は池田家、浅野家、永井家、森家と変わります。永井家が赤穂藩主となったのは元禄14年(1701年)9月1日です。
2、①赤坂と本所
下屋敷は、赤坂の旧氷川小学校の地にありました。さらに本所にも屋敷がありました。
赤坂の下屋敷跡は、明治5年になって勝海舟の屋敷となり、その後氷川小学校となりました。
現在は、「サン・サン赤坂」という港区立の特別養護老人ホーム・高齢者在宅サービスセンターとなっています。
本所の屋敷跡は現在両国高校となっています。10月の文教学院大学の「忠臣蔵散歩」では、オプションご希望の方をご案内する予定です。
3、②太刀
田村家から浅野家に引き渡されたのは浅野内匠頭が切腹時に所持していた身の回りのもので、大紋、烏帽子、小サ刀、鼻紙袋です。太刀は、そもそも松之大廊下で刃傷事件を起こした時から内匠頭は所持していませんでした。
4、③笹屋
大石内蔵助の遊蕩は、話題になりやすいので、覚えておきたい事項です。
伏見の撞木町では、選択肢順に店が並んでいたそうですが、大石内蔵助は、笹屋にしばしば登楼し、夕霧や浮橋という遊女を贔屓にしていたと言われています。
5、④箱根神社
箱根神社には、「預置候金銀請払帳」が保存されていますが、これが箱根神社にあるのは、討入成功祈願をしたからだと言われています。
6、②神崎与五郎
赤穂浪士の多くは、江戸で名前を変え浪人として過ごしていましたが、少数ですが、商人となった赤穂浪士もいます。前原伊助は米屋五兵衛と名前を変え吉良邸近くで商売をしていました。
この前原伊助住居跡も10月の文京学院大学の「忠臣蔵散歩」でご案内する予定です。
神崎与五郎は小豆屋善兵衛と名乗り、前原伊助と一緒に住んでいました。
大高源五は脇屋新兵衛として商人に姿を変えて潜伏しました。小野寺十内は仙北十庵と名を変えて医者として潜伏していました。
7、③鉦
「人々覚書」は、短い文書ですが、討入の際の集合場所・時刻、吉良上野介を討ち取った際の合図や相手の確認方法、負傷した際の対応、問題にした引揚の合図、引揚後の集合場所などが詳細に決められていて、ここまで注意して討ち入ったのかと、その準備の周到さに驚きます。
いずれ近いうちにブログに書こうと思っています。
8、①北側は旗本屋敷で南側は道路
吉良邸の様子は、しっかり確認しておくべき事項だと思います。
北側には2軒の旗本屋敷があり、そのうち東側が本多孫太郎、西側が土屋主税の屋敷でした。
南側は道路でした。
10月の文教学院大学の「忠臣蔵散歩」では、吉良邸の大きさも実感できるような案内をしたいと思っています。
9、 ③細川綱利
御預け先の四大名家の藩主名および官職名は、しっかり覚えておきたい事項です。
四大名家の藩主は、それぞれ、熊本藩細川越中守綱利、岡崎藩水野監物忠之、伊予松山藩松平隠岐守定直、長府藩毛利甲斐守綱元です。
10、 ④栗崎道有
刃傷事件が起きた時、吉良上野介の治療にあたったのが外科医の栗崎道有です。
栗崎道有は、討入後、赤穂浪士により泉岳寺まで運ばれた吉良上野介の首が泉岳寺より吉良家に返された後に胴と縫合する手術もしています。
なお、討入後の吉良家がどうなったかも覚えておいた方がよいと思います。
できれば吉良義周のお墓のあるお寺までチェックしておくとよいのではないかと思います。
吉良義周のお墓は、諏訪市の法華寺にあります。