これが、後の「西南戦争」につながりますので・・・
その前ですが、金曜日に出題した「忠臣蔵の模擬試験問題の正解」をアップしてあります。
「忠臣蔵第3回模擬試験問題の正解」 をご覧ください。
「八重の桜」で描かれた明治6年ごろに征韓論を主張したのは、岩倉使節団が、欧米に派遣された後の留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣たちでした。
当時の留守政府の参議は、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、江藤新平、大木喬任、副島種臣で、西郷以外は、土佐藩と肥前藩の出身者で占めており、土肥政権といっていい政府でした。
明治6年初夏、朝鮮が日本に対して侮蔑したとして、国内で「征韓論」が強くなります。
その状況下で、西郷隆盛は自身が使節として朝鮮に行くと主張しました。
板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成しました。しかし、留守を預かる太政大臣の三条実美は閣議をなかなか開かず決定が遅れました。
が、8月17日についに西郷隆盛を使節として派遣することが閣議決定されました。
これに対して、ヨーロッパから順次、帰国した岩倉使節団の岩倉具視(9月帰国)木戸孝允(8月帰国)・大久保利通(5月帰国)らは、岩倉具視が帰国した9月以降これに断固として反対しました。
しかし、10月15日の閣議では、西郷隆盛の派遣が閣議決定されました。
この決定を受けて16日木戸孝允と大久保利通は参議の辞表を提出します。
17日の閣議では、岩倉・木戸・大久保が欠席したため、三条実美は奏上の結論が出せず翌日に延期しました。
翌18日朝、両派の対立を収拾することができなくなった太政大臣三条実美は、病に倒れました。
20日、明治天皇が三条実美を見舞うとともに太政大臣の職務を代行するよう岩倉具視に命じます。
22日に、太政大臣の職務を代行することとなった岩倉具視は、西郷隆盛たち征韓派の参議を招集して協議をしますが、閣議決定の上奏を要求する征韓派に対して、岩倉具視は、自分の反対意見も奏上するといって譲りませんでした。
そして、23日、岩倉具視は、派遣反対の自分の意見を添えて、閣議の決定を奏上しました。
明治天皇は、最終的には岩倉具視の意見を採用し、西郷隆盛の使節派遣は中止されました。
その結果、その日のうちに西郷隆盛が辞表を提出し、24日は、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の征韓派の参議が一斉に辞表を提出し下野しました。
これが、昨日の「八重の桜」でも描かれた「征韓論争」の経緯です。
それでは、征韓論の中心となった西郷隆盛がねらっていたのは何かですが、これについては、元京都大学名誉教授の井上清が、西郷隆盛が征韓論を唱えたのは、国内対策であったと説明しました。
明治維新により武士の特権ははく奪されたため、武士の不平不満が高まりました。
西郷隆盛は、そうした不満を外に向け、さらに士族独裁体制を実現しようとしたのだと言います。
これに対して、岩倉具視や大久保利通は対外政策としては征韓では同じ考えを持っていましたが、それにもかかわらず、二人が西郷たちに反対したのは、岩倉具視や大久保利通が目指すのが中央集権官僚主義であったため、西郷隆盛や士族の主導による征韓に反対したのだと言います。
この説は、一般に多くの人々の支持を得たようです。
ただし、西郷隆盛が、使節として朝鮮に行こうとしたのは平和的に交渉しようとしたという説もあるようですが、これに対しては批判的な意見を鵜飼隆明教授は岩波新書「西郷隆盛」のなかで書いています。
なお、井上清の考えは中公文庫「日本の歴史20 明治維新」を参考にしています。