この江戸に集結する過程で、赤穂浪士の仇討の足手まといにならないようにと自害する浪士の母親の話が数多くあります。
講談や映画によく取り上げられるのが、原惣右衛門、矢頭右衛門七、武林唯七の母親の自害です。
【原惣右衛門】
原惣右衛門は、300石の足軽頭でした。早い段階から江戸急進派に同調し討入を決行すべきと主張していた上方の急進派でした。
その原惣右衛門が江戸に下向する際に、母親が遺書をのこして自殺したという話があります。
大坂にいた惣右衛門は大石内蔵助と打ち合わせをするために京都に向かう際に母に江戸に行くかもしれないと話しました。それに対して母は惣右衛門を励まして旅立たせました。
大石内蔵助と打合せが住んだ後、惣右衛門は直接江戸を行かず一旦大坂に戻ります。
母親は惣右衛門が戻ったのは自分に心惹かれるためだと考え、仇討ちを成就させるため、遺書をのこして自殺したと言います。
【矢頭右衛門七(やとうえもしち)】
矢頭右衛門七は、討入時、18歳で、大石主税に次いで2番目の若さでした。
矢頭右衛門七の父長助は仇討を主張しますが、8月15日に「必ず亡君の仇を討ってくれ」 と言い残して病死します。
父の遺志をついで右衛門七は仇討のため、母親を連れて江戸に下向しようとしますが、女手形を持っていなかったので関所で止められました。
右衛門七は母親と共に一旦大坂に引き返そうとしました。しかし、そうすると、討入に間に合いません。そこで、心配した母親が右衛門七に「谷川の水を汲んできてくれ」と頼み、右衛門七が目を離している間に自害したと言われています。
【武林唯七】
武林唯七は、中国人の子孫で、孟子の子孫とも言われています。父の代に浅野家に仕えましたが、仇討の急先鋒でした。
武林唯七の母親は、内匠頭の乳母でもあったので、唯七と浅野内匠頭は乳兄弟だったといいます。
その母親は、武林唯七が江戸に下向するのを喜んで、旅の支度を取揃えた後、出発の前夜自害したと言われています。
その際の辞世の歌が残されています
なきあとに かたみをとみよ そでのつゆ なみだにかすむ おぼろよの月
さらに近松勘六の母がその子を励ます為に自害したという話もあるようです。
しかし、これらは、すべて後世の創作といわれています。
それは、赤穂浪士が、切腹する前に書いた「親類書」を見るとわかります。
「親類書」を見ると
原惣右衛門の母は、元禄15年8月に病死したと届けています。
矢頭右衛門七は、母親は大坂天満に妹と一緒に暮らしていると届け出ています。
武林唯七は、母は播州赤穂にいると届けています。
近松勘六は、母親は30年前に病死していると届けています。
このように、明らかに異なっていますので、母親が自害したというのは後世の創作であると言われています。
右上の写真は、泉岳寺にある原惣右衛門のお墓です。戒名は「刃峰毛釼信士」となっています。
右隣が吉田忠左衛門のお墓、左隣が片岡源五右衛門のお墓です。
義士まつりの際に撮影したものです。