赤穂浪士が江戸に集結してきましたが、どこに住んでいたのかをまとめてみました。
赤穂浪士は、日本橋、麹町、本所、芝、深川、築地などに分散して住んでいました。
11月5日に江戸に入った大石内蔵助は、日本橋の小山屋(おやまや)の裏店に住みました。
ここには、大石内蔵助・主税をはじめ9人の浪士が同宿していました。
小山屋は、全国各地から訴訟のために江戸に出てきた人が泊まる公事宿(くじやど)」であったと言われています。
その小山屋の裏店(うらだな)を、大石主税が垣見左内と名乗って、訴訟のため江戸に来た者として借りました。
そして、大石内蔵助はその後見のため江戸に出てきた叔父ということにして「垣見五郎兵衛」と名乗っていました。
この「垣見五郎兵衛」という名前を聞くと、映画やテレビドラマで、道中で本物の垣見五郎兵衛にあい、本物の垣見五郎兵衛の配慮により、大石内蔵助が難を逃れるという場面を思い出す方もいると思いますが、これは、もちろん創作です。従って、「垣見五郎兵衛」という人物は実在していません。
その他の浪士の潜伏先で目立つのが麹町です。
赤穂浪士は本所辺りに住んでいたと思っている人が多いとも思いますが、麹町に潜んでいた浪士が結構多いのです。
ここは、旗本の御屋敷が多い町ですので、幕府のお膝元といってもいい場所ですが、ここに多くの赤穂浪士たちが潜んでいました。
下の資料によれば55人中18人が住んでいます。その中には、吉田忠左衛門もいます。
吉田忠左衛門は、兵学の心得もあり討入りの副将役を務めました。
討入り準備の打合せは、大石内蔵助のいる小山屋や吉田忠左衛門の住まいで行われたと言われています。
右上段写真は、現在の麹町大通りです。この道路脇には、赤穂浪士が麹町に住んでいた旨が書かれた説明板が建てられています(右中段写真)
吉良邸の地元である本所では、3か所に分かれて11人が潜伏していました。
これが討入の際の集合場所となっています。
堀部安兵衛と杉野十平次はともに剣術道場を開き、前原伊助は商人に身を替えて潜伏していました。
10月の文京学院大学の「忠臣蔵散歩」では、前原伊助宅跡(右下段写真)や堀部・杉野たちの住まい跡もご案内しようと思っています。
赤穂浪士が潜伏していた場所については、本によって微妙に違っています。
これは、時期が違っていたり、赤穂浪士の記憶違いといったことによるものと思います。
赤穂市編纂の「忠臣蔵第1巻」によれば下記の通り15か所に住んでいました。
なお、住まいの最後に「店」とありますが、これは「たな」と読み「借家」を意味しています。
それでは、こうした借家の借り賃はどうしたかということですが、赤穂浪士が個人で負担したものも当然あると思います。
しかし、長引く浪人生活で、お金が乏しくなった赤穂浪士の多くは、その費用がありません。
そこで、大石内蔵助が瑤泉院から預かっていた資金から援助しています。
山本博文先生の「これが本当の『忠臣蔵』」によると、江戸借宅の家賃は、金133両余りで。さらに銀でも支出しており、預り金の支出総額697両余りのうちで、江戸と上方を往復する旅費に次いで多くなっているとのことです。
☆日本橋石町3丁目 小山屋弥兵衛裏店 9人
大石内蔵助、小野寺十内、大石主税、近松勘六、潮田又之丞、
大石瀬左衛門、早水藤左衛門、菅谷半之丞、三村次郎左衛門
☆新麹町六丁目 喜左衛門裏店 5人
吉田忠左衛門、原惣右衛門、不破数右衛門、吉田沢右衛門、寺坂吉右衛門
☆新麹町四丁目 和泉屋五郎兵衛店 7人
中村勘助、間瀬久太夫、岡野金右衛門、岡島八十右衛門、間瀬孫九郎、
小野寺幸右衛門、岡野野小三郎
☆新麹町四丁目 七郎右衛門店 5人
千馬三郎兵衛、間喜兵衛、間重次郎、間新六、中田理兵次
☆新麹町五丁目 秋田屋権右衛門店 1人
富森助右衛門と妻子、
☆芝通町3丁目浜松町 塩物屋宇兵衛店 2人
赤埴源蔵、矢田五郎右衛門
☆芝源助町 3人
磯貝十郎左衛門、村松三太夫、茅野和助
☆築地小田原町2丁目 四郎兵衛店 1人
村松喜兵衛
☆深川黒江町 搗米屋淸右衛門店 3人
奥田貞右衛門、奥田孫太夫、西村清右衛門
☆南八丁堀湊町 平野屋重左衛門裏店 5人
片岡源五右衛門、貝賀弥左衛門、大高源五、矢頭右衛門七、田中貞四郎
☆両国矢之倉米沢町 1人
堀部弥兵衛
☆本所林町5丁目 紀伊国屋店 6人
堀部安兵衛、木村岡右衛門、倉橋伝助、横川勘平、毛利小平太、小山田庄左衛門
☆本所徳右衛門町1丁目 紀伊国屋店 3人
杉野十平次、武林唯七、勝田新左衛門、
☆本所二ツ目相生町3丁目 山田屋清右衛門店 2人
前原伊助、神埼与五郎、
☆平間村 2人
矢野伊助、瀬尾孫左衛門