今日の「忠臣蔵」は、深川会議を中心に書きます。
金銀請払帳を届ける
吉良邸討入りが近づき、大石内蔵助は、吉良邸討入りに向けた最後の詰めをおこなっています。
まず、11月29日に大石内蔵助は「預置候金銀請払帳」を瑤泉院の用人落合与左衛門に送り届けています。
この時の落合宛ての手紙の中で、大石内蔵助は、討入りが近いことを暗に知らせています。
これを届けたのは大石内蔵助本人ではなく人づてに届けたようです。近松勘六の下僕甚三郎が届けたとも言われているようです。
深川会議
12月2日には、大石内蔵助は、頼母子講の集まりと称して、門前の茶屋にて会合しています。
これが「深川会議」と呼ばれるものです。
頼母子講というのは、グループのメンバーが定期的に一定額のお金を積み立てて、貯まったお金をメンバーに融通するという互助的な組織です。
12月5日には、吉良上野介が在宅しているという情報があったため、6日に討入りを予定していたため、その最後の打ち合わせのため集合させたと思われます。
右写真は、深川八幡(現在の名称は富岡八幡宮)です。赤穂浪士一同が深川八幡にお参りしたという記録はないようですが、きっと深川八幡にお参りして、討ち入り成功を祈ったことでしょう。
討入り注意事項「人々心覚」
ここで、同志に示されたのが「人々心覚」という討ち入りの集合場所、吉良上野介の首の処理、引き揚げの方法など16カ条にわたる討入りについての詳細な決め事でした。
その内容は次のようです。
1、日が決まったら予て定めた3カ所に集合する。
2、最後の集合は林2丁目の堀部安兵衛宅に集合する。
3、予て定めた時刻に出発する
4、吉良上野介の首を挙げた時は、吉良上野介の上着を剥ぎそれに包んで持参する
5、幕府からの検分があった場合には、「上野介の首は泉岳寺の墓に供えたい」という。それが認められなければ仕方がないが、「お歴々の首は討ち捨てがたい。お指図次第で吉良家に返してもよいが、泉岳寺の墓所にお供えしたい。」と言う。
6、吉良左兵衛義周の首を取った場合には持参する必要はなく屋敷に置いておく。
7、負傷者は、肩にかけて引き取れるものは引取り、引取りが難しいほどの重傷者は首を切る。
8、上野介父子の首をとったら合図の笛を吹く
9、鉦の合図は全員が引き上げる時に使用する
10、引き上げる場所は回向院とする。ここが駄目なときは両国橋東詰め広場とする。
11、引き上げの途中、押しとどめる者がいたら事情を告げる。「無縁時に引き上げ、公儀に趣旨を申上げるつもりであるので、寺までついてきて見てもらってもよい、一人も逃げるものはない」という。
12、吉良邸からの追っ手には踏みとどまって勝負する
13、吉良上野介の首を取る前に検使が来たら、くぐり戸から1人だけ外へ出て挨拶をする
その時、「ただ今 敵を討ちとめている。生き残った者を呼び集め、命令に従うので、しばらく待って頂きたい」と言って、門は開けない
14、.門内にぜひ入りたいと言われても、「討ち入ったものたちは方々で戦っているので、今門内に入られても万一のことがあるかもしれないので、どうでしょうか、追っ付け、門を開いてお目にかかる」と言って門を開けてはいけない。
15、引き上げ出口は裏門とする
16、討入りは必死の覚悟で行うものである。