これは、12月5日に、将軍綱吉が側用人の柳沢吉保の屋敷に御成りになるということになり、それに伴い吉良邸での茶会が中止されたため、12月5日の晩に吉良上野介が屋敷に在宅しない可能性が高くなったためです。
一度決めた計画が中止されたため、多くの赤穂浪士ががっかりするとともに中止に対して異議を申し立てたという話も残されています。
その後、しばらくは新しい情報がはいりませんでしたが、そうしているうちに、12月14日茶会が開かれるという重要な情報が入ってきました。
情報源は、大高源五と言われています。
大高源五は、江戸では町人脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗り、俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗徧に入門していました。
そして、12月6日以降、山田宗徧を訪ねて、「近日中に上方に帰るので、茶の湯の仕上げをお願いしたい」お願いしたところ、山田宗徧は「14日には吉良家で茶会があるので都合が悪い」といって別の日を指定したので、12月14日に吉良邸で茶会があることを突きとめたと言われています。
しかし、これは事実ではなく、後世の創作だという説もあるようで、事実がどうかについては意見が分かれています。
ところで、山田宗徧ですが、あまり知られていませんが、茶道では大変有名な人物です。
千利休の孫に千宗旦がいます。
この千宗旦の子供たちから現在の表千家・裏千家・武者小路千家のいわゆる三千家が起こっていますが、山田宗徧は、この千宗旦の弟子で四天王の一人に数えられている実力者です。
また吉良上野介も千宗旦の弟子でしたので二人は兄弟弟子ということになります。
山田宗徧は、明暦元年(1655)、千宗旦の推挙で三河国吉田藩主小笠原忠知に茶道頭として仕えるようになり、以後40年以上にわたり小笠原家に仕えました。
その後、元禄10年(1697)、吉田藩小笠原家を去り、江戸に下り、宗徧流を興しました。
山田宗徧は、江戸では、本所二つ目に住まいを構えていました。
本所二つ目という場所は、吉良邸のすぐ近くですので、兄弟弟子の吉良上野介との行き来も頻繁に行われ吉良邸の茶会にもしばしば呼ばれていたと言われます。
右写真は、浅草の願龍寺にある山田宗徧のお墓です。
大高源五による上記の情報入手が事実であるかどうか議論のあるところですが、討入りの後、大高源五は、山田宗徧に「欺きて師とし弟子と成りたる事恐れ入り候。併しながら義士忠心の成す所なれば、御免蒙るべし」というお詫びの手紙を書いていますので、上記の話に近いことはあったものと思われます。
茶会が開催されるという情報は、大高ルートの他に、もう別ルートからの情報がありました。
それは羽倉斎からの情報で、大石三平が知らせてきました。
12月13日に、羽倉斎が大石三平に急使を送り、「尚々、彼方の儀(茶会のこと)は14日の様にちらと承り候」と知らせてきました。
そして、14日は、さらに、「吉良上野介が今日帰宅した」という情報を羽倉斎さんから聞いたと知らせてきました。
寺坂吉右衛門が書いた「寺坂信行自記」には、「極月十四日之昼時、兼而申合い候大石三平より、上野介殿御事今日帰宅成られ候由聞付、早速告来候」と書かれています。
さらに、堀部安兵衛と同居していた横川勘平が親しくしていた僧侶が茶人で招待状を吉良家から依頼され、その招待状を横川勘平が代筆して、茶会が14日に開かれということがわかったという話もあったようです。
こうした情報を総合して、12月14日は吉良上野介が在宅していると判断して、12月14日が討入りの日と決められました。