そこで、討入りの関係することについて書いていきたいと思います。
まず、討入りの装束がどんなものだったか書いておきます。
赤穂浪士の討入り装束といえば、 右写真のように黒地の羽織の袖が入山形(いわゆるダンダラ模様)に染められ、左の白襟には播州赤穂浪士と書かれ、右の白襟には各自の姓名が書かれている装束と決まっています。
しかし、これは、歌舞伎の世界であることは皆さんよくご存じのことだと思います。
それでは、赤穂浪士の実際の討入り装束はどうだったのかについて書いてみたいと思います。
討入りの装束については、大石内蔵助は、川崎の平間村から11月初めに、次のように指示しています。
打込之節衣類は黒き小袖を用可申候、帯之結ひ目ハ右之脇可然候、下帯は前さがりはづれざる様ニ御心得可有之候、もも引き・脚絆・わらし用可申事
これを読むと、討入りの際の衣類は、黒い小袖を着用し、股引・脚絆・わらじといういでたちとすることとなっています。
あとは、各自が思い思いのものを身に着けてよいことになっていました。
そのため、装束は赤穂浪士それぞれによって異なっていました。
大石内蔵助の場合には、着込みは瑠璃紺の緞子(どんす)、小手・股引も同じ色で同じ生地でした、股引には鎖をいれていたようです。
吉田忠左衛門は、黒小袖、家紋付、帯は常の帯で上で鎖手拭を結び、股引は茶羽二重、裏付き、股の間に鎖をいれてありました。
このよううに細かい部分は異なりますが、赤穂浪士の討入り装束は、全体的には薄黒くなっており、いわゆる火事装束に似たものだったようです。
討入り後の幕府の取り調べに対して、隣家の旗本の土屋主税が答えている中に
「夜明け前、裏門前へ数五六十人程も罷り出候様に相見申候、何れも火事装束の体に相見申候」
とあります。
また、吉良左兵衛の口上でも
「昨14日之夜八時半過上野介幷拙者罷在り候方へ浅野内匠頭家来と名乗り大勢火事装束体に見へ押込申候。」
とあります。
二つとも、火事装束のような姿をしていたと証言しています。
それでは、なぜ火事装束だったのでしょうか。
当時、江戸では、火事が頻繁に起きていました。
ですから、夜夜中あるいは未明に、火事装束の男たちが大勢町を徘徊していても見とがめられることはなかったからだと言われています。
また、火事場は戦場のようなものですが、そこで動くための火事装束は、戦闘向きでした。
こうしたことから、火事装束をとったと考えられています。
なお、火事装束が基本であることについては、異論がないようですが、赤穂浪士全員が火事装束で統一されていたという説と「いやバラバラで統一されていなかった」という説あるようです。
宮澤誠一氏は「赤穂浪士」の中で、
「全員が一様であったものは、定紋付の黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいであった。ただ全体的に火消しのスタイルに近い服装だったところから、揃いの火事装束という風聞が生まれたのであろう」
と書いています。
山本博文先生は「敗者の日本史」の中で、
「大石父子は、国元から火事装束を持参していたかもしれないが、全員が火事装束を着したというのは疑問である。47人もの浪人がこの時点まで火事装束を持っていたとは思えないからである。」
と書いています