赤穂浪士は、表門隊と裏門隊に分かれて討入りました。
大石内蔵助に指揮された表門隊23人は、表門の屋根に梯子をかけて、屋根を乗り越えて屋敷に討入りました。表門からの一番乗りは、大高源五と間十次郎でした。
二番乗りは、吉田沢右衛門、三番乗りは岡島八十右衛門でした。
屋根から降りる際に、原惣右衛門が足をくじいてしまい、堀部弥兵衛は、大高源五の助けをかりて降りました。神崎与五郎は、雪ですべり、右腕を骨折しました。
これらのことは、伊予松山藩松平家家臣の波賀朝栄が書き記した「松山侯赤穂記聞書」または「波賀朝栄聞書」と呼ばれる文書に次のように書かれています。
右之内一番乗入大高源五、但間十次郎も一所之由、二番乗吉田沢右衛門、三番乗岡嶋八十右衛門かと存候、其外一同ニ飛下り透間少も無御坐候、堀部弥兵衛は極老故飛下かたく相見候ニ付大高源五長刀を指置軒より抱下シ申候、原惣右衛門足をくちき神崎与五郎霜解ニすへり落有之腕を突折候得共何も事とも不仕相働申候」
表門の屋根から庭に飛び降りた赤穂浪士は、門番を突き伏せ、長屋から2~3人が出てきましたがこれも打ち取りました。
赤穂浪士は、玄関先に、「浅野内匠家来口上」を立てて、屋内組と屋外組にわかれ、屋内組は、真っ直ぐに屋敷内に攻め入り、屋外組は、長屋から飛び出してくる家来は即座に斬り殺し、長屋を封鎖しました。
大石主税が大将で、吉田忠左衛門がこれを補佐した裏門隊24人は、かけや(大型の木槌)で三村次郎左衛門と杉野十平次が裏門を打ち破り討入りました。
続いて三村次郎左衛門と杉野十平次は裏門側の玄関をかけやで打ち破りました。
すぐさま、屋内組が屋敷内に突入しました。屋外組は、表門隊同様に長屋を封鎖しました。
この討入りでは赤穂浪士全員が奮闘しましたが、その中で特に活躍したと記録に残された人たちについて書いてみます。
表門隊の小野寺幸右衛門は、屋内組でしたので、屋内へ切り込みました。その際に、広間の床に弓が立てかけていたのを見て、弓の弦を切り払いました。
弦を切り離すという落ち着いた行動に他の赤穂浪士たちも感心したと養父の小野寺十内が妻への手紙に会しています。
表門隊の矢田五郎右衛門は、3人で組んで、広間から書院へ向かった廊下で、吉良方の侍が後ろより切り懸りました。
矢田五郎右衛門は、着込みをつけていましたので、負傷もしませんでしたので、そのまま振り返り切りつけ吉良方の侍を倒しました。
しかし、この時、切先より5~6寸の下のところで折れてしまいました。
それは、倒れた吉良方の侍に下に、火鉢があり、それと知らずに「二の太刀」を火鉢に打つつけた時に、矢田五郎右衛門の刀は、折れてしまいました。
そこで、吉良方の侍の刀を奪って、闘いつづけました。
忠臣蔵の映画やテレビで、雪の庭で吉良方と闘い池に落ちる赤穂浪士がいますが、その赤穂浪士が近松勘六です。
近松勘六は表門隊の屋外組のうち庭守備隊の1人でした。
任務は屋敷内や長屋から出てくる敵に備えるというものです。敵が逃げて出てきたので、勘六は追いかけて行きました。その時のことです。前夜からの雪が凍てついていて、足をとられて、庭の泉水に落ちてしまいました。そのときに相手の刀が太ももに深く突き刺さり負傷しました。
裏門隊の磯貝十郎左衛門は、屋内突入組ですが、屋敷に突入すると、軽輩を捕まえ,蝋燭を出させると次々と点灯して照明を確保しました。
これも後に、大目付仙石伯耆守から褒められています。
討入りで最も闘ったのは、裏門隊の不破数右衛門と言われています。
不破数右衛門は、屋外組でしたが、我慢しきれずに、屋内に斬りこみ、獅子奮迅の働きをしました。
不破数右衛門が着ていた着物は、ボロボロになるほど切り裂かれていました。
また、不破数右衛門の刀はササラのようになっていといいます。
こうした赤穂浪士たちの奮戦により、約1時間後には、吉良方の抵抗はことごとく封じられました。
しかし、吉良上野介は見つかりませんでした。
吉良上野介の探索が続きますが、その話は来週書きます。
明日は、「討入り時の太鼓」について書きます。

