それは、赤穂浪士が準備した道具の中に陣太鼓がなかったり、事前に定めた「人々心覚」の中にも「太鼓」という言葉でてこないことから、陣太鼓そのものがなかったためと説明されています。
しかし、討入り当時から、「山鹿流陣太鼓」はともかく「太鼓」が鳴ったとの風聞があったようです。これについて、宮澤誠一氏が「忠臣蔵」の中で、詳しく解説しています。
そこで、今日は、宮澤誠一氏の「忠臣蔵」を基に、「討入り時の太鼓」について書いてみます。
大石内蔵助が太鼓を打ち鳴らして討ち入ったという話は、討入り当時、早くから流れていたようで、多くの史料に「討入りの合図に太鼓を使った」と記録されています。
まず最初の史料は、吉良左兵衛義周が討入り後、幕府に提出した「口上書」には次のように書かれています。
浅野内匠頭家来と名乗大勢火事装束体ニ相見へ押込申候、長屋之方弐ヶ所ヘハ階子(はしご)を懸け置、裏門之方ハ扉を破大勢押込 太鼓抔(など)打 火消の体に仕 (後略)
また、上杉家の家臣大熊弥一右衛門が書いた「大熊弥一右衛門見聞書」には
火事ト申表門・裏門に而(て)太鼓を打声を合せ門の戸を懸槌に而(て)打開き押込弓を射込 (後略)
同じく上杉家の家臣野本忠左衛門の「野本忠左衛門見聞書」には次のように書かれています。
表門之方御長屋二ヶ所橋子(はしご)を懸裏門はかけ槌と大木てこにて戸ひらを打ち破り火事太鼓を打火消装束にて押込 (後略)
このように、いろいろな記録に、討入りの際に太鼓が打たれたと書かれています。
しかし、大石内蔵助が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らして討入りしたならば、吉良邸では、討ち入りに気が付きすぐに防備をするであろうし、隣の土屋主税などの旗本屋敷でも黙って放っておきはしないだろうという推測ができますので、そうすることは、赤穂浪士側にとっては危険なことになります。
ですから、慎重な大石内蔵助が、そんなことをやるはずがないと宮澤先生は考えます。
それでは、事実はどうなのかというと、裏門から赤穂浪士が突入する際に、かけや(大槌)で裏門を打ち破り押し入りましたが、吉良邸の周囲の人が、その扉を打ち破る音を太鼓の音と思ったのだろうと宮澤先生は考えます。
しかも、その音は、戦いの陣太鼓ではなく、火消の火事太鼓の音だと思ったのだろうと考えています。
野本弥一右衛門の見聞書では、「火事太鼓を打ち、火消装束にて押込み」と書いてあります。
また、「桑名藩覚書」には、「上野様近所町之者共太鼓之音にて火事と存さはぎ候へば、敵討に候間出合申間敷と相触申候由」とあります。
つまり「上野様近所の町の者たちは、太鼓の音を聞いて火事と思ったので、敵討ちであるので、外に出ないように触たとのことである。」ということです。
当時は、板木はなく、火災の時には太鼓を打ち鳴らして知らせたと言います。
そのため、当時の太鼓の音は、まず人々に火事を連想させるものでした。
ですから、火事装束のような姿で討ち入ったことから火事を連想させ、火事太鼓が鳴ったかの幻聴を生じさせたのではないかと宮沢先生は考えています。
こうした連想は、さらに発展し赤穂浪士の討入りが、勇ましい戦闘場面として想像されるようになってきて、
討入り場面には「揚げてうちん弐ツ騎馬弐人門前ニて押太鼓鳴候と二手ニ分かり、表門・裏門ニ寄ル」というように提灯や騎馬までが動員され、戦さの勇ましい姿に変貌していきました。
こうしたことが、赤穂浪士が山鹿素行の兵法の影響を受けているという風聞のひろまりにつれて、いつの間にか山鹿流陣太鼓といわれるようになっていくのであると書いてあります。

