赤穂浪士が、吉良邸に討ち入ったのは、吉良上野介の首を挙げるためでした。
1時間ほど闘い、吉良方の抵抗はなくなりました。
屋敷内で出会う吉良方は一人もいなくなり、まるで明屋敷のようでした。
そした状態のなかで、目標の吉良上野介を捜しました。
屋敷の天井から床の下までくまなく捜しました。屋敷は一部2階となっているため、2階も当然調べました。
しかし、吉良上野介はいませんでした
こうした情況に、若者の中には、吉良邸で自害しようとまで言い出すありさまだったようです。
しかし、吉田忠左衛門が、こうした意見を抑え、もう一度、徹底的に捜すよう指示しました。
そうすると、台所の脇の炭部屋と思われる小屋に気が付きました。ここはまだ確認していませんでした。
そこで、戸をあけると、中に2、3人いるように見えて、中からむやみに皿や茶碗など炭部屋にある物を投げてきました。
詰め寄ると、2人が立ち向かってきました。しかし、2人とも討ち果たしました。
奥を見ると、物陰に何者かが見えました。そこで、間十次郎が槍で突き刺しました。
脇差を抜いて出て来たので、武林唯七が一刀のもとに切りとめました。
それが、吉良上野介とはわからなかったが、寝間着は白無垢(白の小袖)で、顔に古傷がありました。傷を調べましたが、顔の傷は討ち入りの時の傷と以前の古傷とが重なっていて、はっきりと見分けがつきませんでした。
しかし、背中の傷は確かに主君がつけた吉良上野介の傷に見えました。
そこで、捕まえた置いた門番を連れてきてみせると吉良上野介に間違いがないとのことでした。
そこで、上野介の首は一番槍の十次郎に揚げさせ、白小袖に包んで、以前決めていた合図の笛をお互いが吹き合いして、全員が表の玄関前に集合しました。
そして、かねて捕えておいた門番3人に見せたところ、吉良上野介であると言いました。
その際に、懐中にあった三つの守り袋を証拠であるとして持参しました。
こうして、吉良上野介の首を赤穂浪士が挙げました。
これが、富森助右衛門が書き記した「富森助右衛門筆記」に書かれた吉良上野介の最期の様子です。
しかし、宮澤誠一氏によると吉良上野介の最期は、従来よく言われるように吉良上野介が赤穂浪士に向かってきて斬られたのではなく、手向かいもせずに斬られたのだと言います。
このような状況とは違う情報があるとのことです。
それは、不破数右衛門が実父にあてた手紙の中で、
武林唯七と間十次郎が吉良上野介を仕留めた時は、吉良上野介だとは分からなかった。
不破数右衛門が駆けつけ、吉良上野介の首にかかっているお守りを見つけ、それが平生の人のものと違うことに気が付き、顔を払ってみると額から眉の頭までの古い疵が見えたので、吉良上野介に違いないから、首を揚げるようにいった
と書いています。
宮澤先生は、
実際は、不破が書き残したように、吉良上野介は抵抗もしないうちに武林唯七や間十次郎などその場に居合わせた数人の浪士たちによって斬り殺されたのかもしれない。
「富森筆記」では、吉良上野介殺害の残酷さをやわらげるために、浪士たちの行為を飾って書き記したとも考えられる
と書いています。
山本博文先生も「本当の忠臣蔵」の中で、宮澤説に賛成しています。
右写真上段は、本所松坂町公園の中にある吉良上野介の像、下段は吉良上野介首洗いの井戸です。