赤穂浪士側は、討入りによる死者は一人もいませんでした。
討入り装束は、黒い小袖を基本としたものでしたが、小袖の下には着込みを着ていましたし、足には脛当てをつけていましたので、斬りつけられても、十分に防ぐことができました。
そのため、大石内蔵助は、原惣右衛門と小野寺十内の連名で寺井玄渓に送った手紙で、
手負候者は、近松勘六と横川勘平の2名であり、けが人は、原惣右衛門と神崎与五郎の2名だと書いています。
これに対して、吉良側の死傷者は、死傷者数は、赤穂浪士側よりはるかに多くなります。
ただし、その数は本によって異なり、死者の数が、16人であったり、17人であったりして、違っています。
山本博文先生の「本当の忠臣蔵」には
「江赤見聞記」を基に、死者17人、負傷者19人であったとなっています。
一方、赤穂市編纂の『忠臣蔵』では、
「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」とあります。
山本博文先生は「敗者の日本史 赤穂事件と四十六士」では、幕府検使の報告をもとに16人としています。
菊池明氏著の「図解雑学忠臣蔵」も16人としています。
なお、本所松坂町公園には、「吉良家家臣二十士」という石碑が建てられていて、討入時になくなった20人それぞれの名前がのっています。(右上写真)
さて、吉良上野介は、首を揚げられましたが、上野介の養子であった義周は、討入時どうしていたでしょうか。
吉良義周は、米沢藩4代藩主・上杉綱憲の次男として生まれました。
父の綱憲は、吉良上野介の嫡男でしたが、3代藩主上杉綱勝が、嗣子ないまま亡くなったため、末期養子として上杉家を継いでいました。
吉良家は、嫡男綱憲を養子としたため、次男の三郎が嫡子となっていましたが、夭折したため、綱憲は自分の次男・春千代を実家吉良家の養子としました。
そこで、春千代は吉良左兵衛義周と名を改め、吉良家の養子となりました。
元禄14年12月12日、吉良上野介は事件の影響で隠居し、義周が家督を相続していました。
赤穂浪士の討入り当時義周は18歳でした。義周も自ら武器をとって応戦したものの、赤穂浪士に面と背中を斬られましたが、そのまま気絶して部屋に残され命に別状はありませんでした。
左兵衛を斬った赤穂浪士は、不破数右衛門という説と武林唯七だという説があります。