今回の試験問題は、「赤穂浪士銘々伝」からの出題でしたが、有名な人物を対象にしましたので、比較的容易に回答できたと思いますがいかがでしたか?
今回の問題を容易に回答できた方も、こらに安心しないでください。
赤穂浪士は47人もいますので、覚えておくべき人物は、今回の人物に限りませんので、より多くの赤穂浪士の特徴を覚えておいた方がよいと思います。
問題はこちらをご覧ください。
⇒ 忠臣蔵 第5回模擬試験問題
25.9.17追記
青字部分を追記しました。
各人の討入り時の年齢と討入り時の表門隊・裏門隊の別を追加しましたが、これは、山本博文先生の「本当の忠臣蔵」によります。
1、小野寺十内 60歳 裏門隊
小野寺十内は、赤穂城開城の際には、目付荒木十左衛門、榊原采女の接待役を務めています。
円山会議で仇討決行が決まると手鼓をうって、「つはものの まじわりたのみあるなかの酒宴かな」と声面白く謡ったと「赤城義臣伝」に書かれています。
小野寺十内と妻丹との仲のよさは有名で、二人の間でやりとりされた愛情のこもった手紙が数多く残されています。
妻丹は、十内の四十九日の法要した後、食をたって自ら命をたちました。
問題文の中の養子とは小野寺幸右衛門で、その兄とは大高源五です。
2、 早水藤左衛門 39歳 表門隊
早水藤左衛門と一緒に急使にたったのが萱野三平です。萱野三平は自害をして討入りには参加できませんでした。
早水藤左衛門は、若い頃弓の名人星野勘左衛門に学び藩随一の腕前でした。星野勘左衛門は尾張藩士で 三十三間堂の通し矢で記録をたてた弓の名人です。
討入りの際には、得意の弓で、吉良家の家臣の反撃を防ぎました。
3、片岡源五右衛門 36歳 表門隊
片岡源五右衛門は、幼少の頃から浅野内匠頭に仕え、寵童であったとも言われています。
事件当時、片岡源五右衛門は、大手下馬先に供待ちしていました。事件発生後、鉄砲洲の屋敷に戻り後始末に奔走します。
片岡源五右衛門は、「忠臣蔵」では、浅野内匠頭が切腹に向かう際に、無言の挨拶をすることになっていますが、これは、「多門伝八郎筆記」に書かれていることで、事実かどうか疑問視する説があります。
4、 吉田忠左衛門 63歳 裏門隊
吉田忠左衛門は、副統領の立場でした。年齢は、堀部弥兵衛についで高齢でした。
兵学も学んでいて、大石内蔵助の参謀役も務めました。
泉岳寺への引き上げの途中に、赤穂浪士一行から離れて富森助左衛門を連れて仙石伯耆守に自首したことは大変有名です。
討入り組の吉田沢右衛門は嫡子、貝賀弥左衛門は実弟、寺坂吉右衛門は足軽でした。
5、 富森助右衛門 33歳 表門隊
勅使を品川まで迎えに行った際、一緒にこの役目を果たしたのは脱盟組の高田郡兵衛でした。
富森助右衛門は江戸定府であったので、事件以降赤穂にはいっていません。
大石内蔵助が、江戸下向の際に足を落ち着け平間村の借宅は、富森助右衛門が準備したものです。
赤穂浪士一同が泉岳寺に眠っているのも、細川家に御預けとなっている際に、富森助右衛門がお願いしたことがきっかけとなりました。
なお、富森助右衛門は「春帆(しゅんぱん)」という俳号をもつ俳人でもありました。
討入りの際には、母の白無垢の小袖を身に着けて討入ったと言います。
6、 原惣右衛門 55歳 表門隊
原惣右衛門は、事件発生の際には、伝奏屋敷に詰めていましたが、伝奏屋敷の後片づけの指揮をとり、短時間に処理し、高く評価されました。
その直後、第2の急使として、大石瀬左衛門とともに赤穂に向かいました。
石高300石以上で討入りに参加したのは、大石内蔵助、片岡源五右衛門(350石)、そして原惣右衛門の三人だけでした。
同志の岡島八十右衛門は実弟です。
7、 大高源五 31歳 表門隊
大高源五は、当時から藩外にも有名は文化人で、萱野三平(涓泉けんせん) 、神崎与五郎(竹平)とともに三羽烏と呼ばれました。
山田宗徧に入門していて、吉良邸で12月14日に茶会が開かれるという情報を取ってきたことで有名です。
これとともに、両国橋の上で、宝井其角とあい、其角が「年の瀬や水の流れも人の身も」と前の句を詠んだのに対して「あした待たるる其の宝船」と下の句を詠んで返したという話が大変有名ですが、これは後世の創作です。
なお、大高源五には、討入り装束を書いた手紙が残されているので、参考に書いておきます。
私最後のいでたち、下に着込綿入候て黒股引脚半、何れも何れも鎖脛当入申候。黒き しころ頭巾に鉢金入候て上着は黒き鳶紗綾(とびさや)綿入、紅絹裏(もみうら)の小袖着申し、帯も黒き五重まわり、鎖入、刀は親父さま御指し被成候刀にて御座候
8、前原伊助 39歳 裏門隊
赤穂藩改易後は、すぐに商人に姿を変えて、古着屋を開業しました。そして、吉良邸が本所に移る際には、人足にとなって邸内を探ったあと、吉良邸近くに店を構えましたので、商売上手だったと思われます。
なお、前原伊助は、江戸定府であったため、大石内蔵助と面識がありませんでした。しかし、大石内蔵助が元禄14年11月に江戸に下向した際に面会し同志として認められました。
9 不破数右衛門 33歳 裏門隊
不破数右衛門は、「忠臣蔵」の中では、赤穂藩改易の際に、具足櫃を担いで赤穂に駆けつける姿として描かれることがありますが、これは数右衛門の父岡野冶太夫のエピソードです。
「討入りの際に最も活躍したのは不破数右衛門である」と原惣右衛門が手紙に書いています。
10 堀部弥兵衛 76歳 表門隊
堀部弥兵衛には、弥平太という男の子がいました。弥平太は、優秀な子でしたが、16歳の時に、親戚の一人に斬りつけられ命を落としてしまいました。
そこで、跡取りとして養子に迎えたのが堀部安兵衛です。
安兵衛は、最初固辞しましたが、弥兵衛が浅野内匠頭に中山姓のまま跡目を相続するよう願い出たことに感激し、安兵衛は中山姓を捨てて堀部姓を継ぐ決心したと言われています。
討入り出陣のお祝いの際に振る舞った酒の肴は、「敵に『勝栗』」「敵の首を『とってよろこぶ(昆布)』」そして「名を取れという意味の『菜鳥の吸い物』」だったそうです。
討入りの際には、老齢のため屋根から降りる際に、大高源五が建てかけた鑓を支えにして降りたと言います。

