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吉良上野介の首(江戸検お題「本当の忠臣蔵」76)
今日は、泉岳寺における赤穂浪士たちの様子と吉良上野介の首について書きます。
 「白明話録」によると、朝食のあと、赤穂浪士たちに、和歌や詩や俳句を依頼した様子が書かれています。
 木村岡右衛門から和歌、茅野和助から和歌、岡野金右衛門から俳句、大高源五から俳句、武林只七から漢詩、神崎与五郎あkら俳句をそれぞれ書いてもらったと書かれています。
 大高源五の俳句は、 山を劈(さく) ちからも折れて 松の雪  でした。
 なお、これに関連して、大石内蔵助の辞世「あら楽し思ひははるる身は捨つる浮世の月に翳る雲なし」は泉岳寺で詠まれたとされているが、「白明話録」には書かれていないことから、偽作の歌ではないかと宮沢誠一先生が「赤穂浪士」の中で書いています。

 そうしているうちに、また、ご飯の用意が出来て、書を頼む状況ではなくなりました。
c0187004_881972.jpg 赤穂浪士は疲れたと見え、殊の外、眠りました。皆さん温和な人たちでした。
 武林唯七は至って勇ましい様子でした。
 食事が済んだのは、申の上刻(午後4時)頃でした。
 そこへ御奉行所より召し出されたということで、赤穂浪士の皆さんも出立する用意を始めました。
 先ず寺へ参られ、全員が列座して、大石内蔵助は、丁寧に礼を述べられました。
 赤穂浪士一同は頓首してお礼・感謝を述べて出立しました。
 最早や、暮六つ時(午後6時)でした。
 提灯6張を前中後の3カ所に2個づつ配置しました。駕籠に乗ったのが6人でした。
 大石父子は一番先頭を歩きました。行列を正し、勇ましい様子でした。
 泉岳寺の僧全員が見送りしました。

 さて、赤穂市発行の「忠臣蔵第1巻」」には、もっと詳しく書かれています。
 仙石伯耆守は、御徒目付を泉岳寺に派遣しても、赤穂浪士がすぐに命令に従うかどうか心配だったため、吉田忠左衛門と富森助右衛門に書状を書かせてそれを持たせて行かせました。
 御徒目付石川・市野・松永が泉岳寺に行くと、長恩和尚は、赤穂浪士44人を客殿に集めました。
 赤穂浪士に対して、御徒目付は、大目付仙石伯耆守から仰渡しがあるので、仙石伯耆守の屋敷にくるようにと伝えました。
 この際に、「吉良上野介の首をどうすればよいか」との問いに対して、「幕府から指示を受けていないので指図できない。持参に及ばないのではないか」と回答がありました。
そのため、吉良上野介の首は吉良上野介のお守り袋・鼻紙袋を添えて長恩和尚に預けることにしました。
 申渡しが終わって、御徒目付は「拙者たちは一足先に帰る、各々方は御勝手次第に仙石伯耆守の屋敷に来るように」と挨拶して帰りました。
 その後、長恩和尚から食事をふるまわれました。大石内蔵助ら主な人は客殿で、他の人は衆寮で食事をとりました。
 酒もだされたそうです。

 夜5ツ時(午後8時) 駕籠11挺と徒歩にて、朝の装束の儘泉岳寺を出発し、高輪・三田・新堀・西久保を経て愛宕下の仙石伯耆守の屋敷に入りました。

 なお、泉岳寺における赤穂浪士について書いたものとして「泉岳寺書上(承天覚書)」がありますが、これはあまり信用されていないようです。
 赤穂義人纂に収録されていますが、そのコメントでも
 「与太が多く、重野博士だけでなく三田村鳶魚も真っ向から否定している」と書いてあります。
 事実、三田村鳶魚は「忠臣蔵の真相」の中の「講談の根本資料」の中で
「泉岳寺書上」はあまりにもばかばかしいので誰彼も相手にしないのでしょうか。一向弁正したものがございません」と書いていて、その内容のいい加減さを詳しく批判しています。

 最後に吉良上野介の首の処置についても触れておきます。
 「白明話録」の中には、吉良上野介の首の処理についても次のように書かれています。
c0187004_883613.jpg  吉良上野介の首は、浅野内匠頭の墓前で手向けた後、庫裏から重箱の外箱を取り寄せ、首を納め、終日衆寮に置いてありました。
 赤穂市発行の「忠臣蔵第1巻」によれば、赤穂浪士が食事の時に、泉岳寺ではお酒も出しましたが、その際に「酒の肴がない」と言ったところ、吉良上野介の首の入った箱をさして「これほどの肴はない」と言いながら酒を飲んだそうです。
 寺社奉行阿部政喬は泉岳寺の和尚を呼んで、吉良上野介の首を吉良家に返すよう伝えました。
 泉岳寺では、翌日の晩、二人の僧すなわち一希と石獅を使いとして吉良兵衛の屋敷に送り届けました。
 使僧は、吉良家の受取書をもらってかえりました。
25.9.21追記
 吉良上野介首請取状は、次のように書かれていました。
   覚え
   一  首    一ケ
   一  紙包  一ケ
     右之通慥ニ請取申候、為念如是御座候、以上
       十二月十六日
               吉良左兵衛内 左右田孫兵衛
                         齋藤宮内
        泉岳寺御使僧  石獅 僧
                   一呑 僧
 
 送られた首は、栗崎道有によって胴体と縫合され、牛込の萬昌院に葬られました。
 吉良上野介の戒名は霊性寺殿実山相公大居士です。
 25.9.21追記
 右上写真の右端の墓碑が、吉良上野介義央のお墓です。

by wheatbaku | 2013-09-20 08:26 | 忠臣蔵

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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