その前に、「白明話録」には、興味深いことが書かれていましたので、書いておきます。
吉良上野介の首を船で運んだという説があることについて「白明話録」では、「上野介殿首舟にて廻せしこと、無こと也」と書かれていました。
また、「墓に首手向礼拝のうちに、泉岳寺の和尚大衆をひき諷経(ふきん:声をそろえて経を読みあげること)に出しという事、あとかたもなき事なり、夫(それ)までは何やらしれぬなり、寺に申さずすらすらと墓へいたなり」
赤穂浪士一行は、勝手に浅野内匠頭の墓前に向かったということです。
「寺中ことの外騒動したることもなきなり、五六〇人の飯などは常にすることなり、殊に大石以下いづれも心安く度々逢たる人なり、(中略)泉岳寺の衆徒鉢巻で棒を持討手防ぎの用意に出たということも無きことなり。」
泉岳寺では、赤穂浪士一行が突然引き揚げてきても混乱することもなく、上杉家の討手がきたといううわさでその対応の準備をしたということもないと言っています。
この「白明話録」は、白明が72才の宝暦5年(1755)の話を記録したものなので、事件が起きた当時の根拠のない江戸の噂話を当事者が否定しているので興味深い話だと思います。
このほか、「白明話録」には、赤穂浪士の埋葬の様子や赤穂浪士が切腹した後の泉岳寺が預かった遺品の処理などについても書かれていますので、それらについては、後日、また書きたいと思います。
さて、泉岳寺から仙石伯耆守の屋敷に向かい、夜5ツ時(午後8時)に仙石伯耆守の屋敷について赤穂浪士一行ですが、「富森助右衛門筆記」によれば、
仙石伯耆守の屋敷では、提燈を出し張り番を少々立てて待っていた。一行は刃先を包んで持ってきた鑓・長刀を門前に置き、大小・懐中物は仙石の、目付に渡し玄関に上がった。姓名・年齢と「直参の親類はないか」とのお尋ねに答えた。
と書かれています。
「富森助右衛門筆記」では、その後は、細川家に御預けなった17人についての話になっていますが、赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」によれば次のようになっています。
この原史料は「赤穂浪人敵討聞書」(大石神社所蔵)とのことです。
仙石は大石内蔵助に向かって、この度本意を遂げたこと、ならびに討入りにあたって落ち付いた仕形に対して称美する旨をのべ、ついで討入りの次第をあらまし尋ねた。
それについては、主に吉田忠左衛門が答えた。
(伯耆守のお尋ねはカッコ書き、それに対する吉田忠左衛門の答えをその後に書くと次のようです。)
「松明は持参したか」
火の道具は一切用意しなかった。月夜なので行燈などすっかり消されていた。
「隣の屋敷はどうだったか」
土屋主税の屋敷が非常に騒がしく提灯など用意し人数をだしているようにみえるので
、塀越しに、「夜中にけがなどされては迷惑なので構わないように」と言ったところ、返答はなかったが静かになった。
「上野介の首はどうしたか」
布に包みそれを槍で貫いて間十次郎が担い10ばかりが廻りを固め泉岳寺に持参した。
こうしたお尋ねの後、四大名家御預けのことが申し渡されました。
仙石伯耆守の屋敷があった跡(現在の虎の門)には、日本消防会館が建っています。
右上の写真は、その入り口にある、赤穂浪士のモニュメントです、