今回の問題は、かなり難しいのではないかと思いますがいかがでしたか。今回の問題は、「赤穂浪士に関して、こんな話題もありますよ」的な面もあります。
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問題はこちらをご覧ください。
⇒ 忠臣蔵 第6回模擬試験問題
1、 ①晴
討入りは、映画やテレビの「忠臣蔵」では雪と描かれることが多いのですが、さすが、最近は雪が降っていた思う人は少なくなったようです。
雪でなければ、晴れていたのか曇りなのかと問われるとどうなのか答えれれない人が多いのではないかと思って、問題にしてみました。
討入りの際の天候は「晴」だったようです。しかも満月間近(14日)の月ですので、吉良邸に向かう途中も結構明るかったのではないかと思います。
小野寺十内の2月3日付の妻あての手紙に「火のあかり世間をはゝかりて挑灯も松明もともさねとも有明の月さえて道まかふへくもなくて」と書かれています。
また吉田忠左衛門は、仙石伯耆守が、松明等を用意したかとの御尋ねに対して、「御城下は火災が心配ですので、火の道具は準備しませんでした。月夜だったので、赤穂浪士一同で吉良邸を取り巻きました」と答えています。
これは、浅野浪人敵討聞書に「松明等持参仕候哉のよし御尋、忠左衛門申候は、御城下火災無心元奉存火之道具少も用意不仕候、月夜ニて候故右之者共家ヲ取巻(後略)」と書かれています。
2、③長門府中藩毛利家
歌に注釈をつけると次のようになります。
「細川(熊本藩細川越中守)の水の(岡崎藩水野監物家)流れは清けれど、
ただ大海(長府藩毛利甲斐守家)の沖(松山藩松平隠岐守家)ぞ濁れる」
大海の「海」は「甲斐」とかけられていて、「沖」は「隠岐」とかけられています。
3、 ②手打蕎麦は元禄時代にはなかった。
三田村鳶魚は「赤穂義士 講談の根本資料」の中で、手打蕎麦は宝暦のころに考え出されたもので、元禄の頃には、手打蕎麦はなかったと言います。
「手打蕎麦という言葉などは、宝暦以後の言葉で、元禄時代には決していわない。」と書いてあります。
4、 ②保科正之
上杉綱勝の正室は、保科正之の長女媛姫でした。この媛姫を正之の継室おまんの方が誤って毒殺してしまいました。そうしたことがあったため、保科正之は、その罪滅ぼしの意味もあって、綱勝が嗣子なくして死去した際に、吉良上野介の長男三郎を養子として家名存続できるよう尽力しました。
5、 ③世嗣断絶
備中松山藩の藩主水谷勝美が元禄6年10月6日に死去しました。
実子が無く、水谷勝晴を末期養子にしたが、この勝晴も11月27日家督相続前に死去したため、水谷家は無嗣断絶で改易となりました。
この城受取の交渉は、受取側大石内蔵助、引渡側鶴見内蔵助の間で行われたため、「両内蔵助の対談」として話題になりました。
6、 ④吉田松陰
吉田松陰は、安政元年、アメリカへの密航が失敗に終わり、下田から江戸の小伝馬町牢屋敷に護送されました。
その途中、高輪泉岳寺を過ぎるときに、赤穂浪士に思いを寄せて、問題文の中の和歌を詠みました。
7、 ③鹿児島県
薩摩藩では、郷中教育という特別な仕組みがありました。
郷中では、郷中三大行事と呼ばれる行事があり、その一つが旧暦の12月14日に夜通し行われる「『赤穂義士伝』輪読会」でした。
この行事は、現在も継続されています。
8、 ①茶釜
華蔵寺の本堂には、吉良上野介遺愛と言われる茶釜が残されています。(右上写真)
その写真は、本所松坂町公園の中にも掲示されています。
9、 ①可笑
大石内蔵助は、絵画・書に「可笑」という号を使用していました。
②祥岳は、赤穂浪士9人を預かった岡崎藩主水野忠之の号です。 ③保山は柳沢吉保の号で、 ④卜一は、赤穂浪士が吉良上野介を呼ぶ際に使った符丁です。
10、 ④小野寺幸右衛門と岡野金右衛門
小野寺幸右衛門と岡野金右衛門は従弟同士です。
小野寺幸右衛門は、大高兵左衛門の次男で、大高源五の実弟です。叔父の小野寺十内の養子と成り、小野寺姓を名乗りました。
岡野金右衛門は、岡野金右衛門の子です(父子の通称が同じ)。
父親岡野金右衛門は、小野寺十内や大高兵左衛門の妻貞立尼の弟です。

