今回の「忠臣蔵銘々伝」から出題した人物はあまり有名人ではありませんが、それなりに記憶しておいてほうがよいと思われる人たちを題材にしました。
その注目ポイントも解説に書いておきましたので、ご参考にしてください。
問題はこちらをご覧ください。
⇒ 忠臣蔵 第7回模擬試験問題
1、 貝賀弥左衛門
貝賀弥左衛門は、大高源五とともに神文返しの重要任務を担当した人物ですので。必ず覚えておきたい人物として題材にしました。
また、貝賀弥左衛門は吉田忠左衛門の実弟で、母方の貝賀新兵衛の家を継いだため、苗字が貝賀となっています。
2、 赤埴源蔵
講談や浪曲で「赤垣源蔵 徳利の別れ」で大変有名なのですが、本名は「赤埴(あかばね)」と言います。
「赤埴」のくずし字が「赤垣」と間違えて読まれたことから「赤垣源蔵」として人口に膾炙しています。
赤埴源蔵の妹は、阿部対馬守の家来田村縫右衛門に嫁していました。12月12日、縫右衛門の家を訪ねました。その際、赤埴源蔵はいつもより美服を着ているのを、義父が見とがめて、赤穂家中が腰抜であると意見したそうです。
この話が、「徳利の別れ」の基になっていると言われています。
3、 間新六
間新六も、赤穂浪士四十七士の中で、 問題文に書いた通り特徴的な行動(①実際に割腹していること、②泉岳寺に埋葬されていない)をしているので、題材に取り上げました。
間新六は、切腹後、姉婿の中堂又助が遺骸を受取り、築地本願寺に埋葬しました。
築地本願寺には、現在も、間新六のお墓が残されています。(右上写真)
4、 杉野十平次
杉野十平次の本所徳右衛門一丁目の借宅は、討入り前の同志の集合場所三カ所の一つに指定されていますので、題材に取り上げました。残りの二つの集合場所は①堀部安兵衛借宅、②前原伊助借宅です。
杉野十平次は軽輩でしたが、母方の叔父萩原兵助は150石、萩原儀右衛門は100石を有し、両家とも豊かな暮らしをしていました。
この萩原兄弟は、自家に大砲を持っていましたが、赤穂開城前に、これを脇坂淡路守に売り渡してしまいました。
そこで、萩原兄弟とは義絶して盟約に参加しています。
討入りの際には、三村次郎左衛門とともに裏門を掛矢で打ち破り一番に討ち入っています。
なお、今は亡き三波春夫の名曲「俵星玄蕃」に、そばやに変装した杉野十平次が登場しますが、もちろん、フィクションです。
5、 武林唯七
武林唯七の祖父は、中国人の子孫と伝えられているので、題材にしました。
中国人で、しかも孟子の子孫とも言われているので、覚えておいた方がよい人物だと思います。
武林唯七は上方の急進派の急先鋒で、山科会議でも仇討決行を主張しています。
武林唯七には、兄がいて、渡辺平右衛門と言いました。兄も仇討に加わるというのを、父母の面倒を見て欲しいと参加を見合わせるよう説得しています。
6、 矢頭右衛門七
赤穂浪士の中で10代の同志は、問題文に書いたとおり、大石主税と矢頭右衛門七の二人で、問題になりやすいと思われるので、要注意人物だと思います。
矢頭右衛門七の父は8月15日になくなり、叔父が越後にいるため、母と妹を叔父に預けるため、新居の関まで来たところ女切手がなかったため関を通過できず、大坂まで引き返しました。切腹前の親類書を見ると大坂天満にいると書いてあります。
7、 潮田又之丞
潮田又之丞は、大石内蔵助の一族小山源五右衛門の娘婿で、広い意味で大石内蔵助の一族であったので、題材としました。
大石内蔵助の一族は、討入りに参加した人が少なく、大石内蔵助の親族で討入りに参加したのは、大石主税、大石瀬左衛門しかいません。そして、あえて言えば潮田又之丞ということになります。
円山会議の後、決定内容を知らせるため堀部安兵衛と一緒に江戸に下りました。その際、浜松において広島に向かう浅野大学の一行と出会っています。
そして、隅田川での会議の後、近松勘六と一緒に京都に戻り、その後、大石内蔵助と一緒に江戸に下りました。
細川家に御預けになっている時に、潮田又之丞は、歯ぎしりがひどかったという話が「堀内伝右衛門筆記」に出ています。
また、大石内蔵助が切腹する際に、潮田又之丞が、「皆も追っ付け参ります」と声をかけると、大石内蔵助は振り返りにっこりわらったと言います。
8、 岡島八十右衛門
赤穂藩が改易にとなるに際しての最も重要な対策の一つが藩札の処理でした。
岡島八十右衛門は、札座奉行として、藩札の換金処理を担当しましたので、改易処理担当として重要な人物です。そのため題材にしました。
藩札の換金割合は6割で、当時としてはかなり有利な換金率でした。
岡島八十右衛門は原惣右衛門の実弟ですが、岡島善右衛門の養子となったため、姓が岡島となっています。
9、 三村次郎左衛門
三村次郎左衛門は、軽薄な身分で討入りに参加した人物として、寺坂吉右衛門ともによく話題になる人物ですので、題材としました。
事件の報が伝えられた時、身分が低いため、会議の席に出席できなかったため、大石内蔵助に直訴したところ、大石内蔵助から励まされ感激したと伝えられています。
10、横川勘平
12月14日に茶会が開かれるという情報を掴んできたのは大高源五だという話は、多くの人が知っていますが、違うルートからの情報入手があったという事を覚えておいたほうがよいと考え、題材としました。
横川勘平は、浅野大学の広島藩への御預けとの報が伝わった7月24日の夜、大石内蔵助から指示を受けて、江戸の吉田忠左衛門に「江戸の同志が軽挙しないように」と伝えれるため、江戸に発ち、7月29日到着するという重要な役も果たしています。
茶会情報については、問題文に書いた通りです。