今日は、このテーマについて書きます。
刃傷が引き起こされた遺恨の原因について、詳しく書いてあるのが「赤穂義士辞典」です。
その「赤穂義士辞典」に沿って、要約して書いてみます。
『赤穂義士事典増訂』(新人物往来社) は、赤穂義士顕彰会編、佐佐木杜太郎改訂・増補です。
1、遺恨の原因は不明
「赤穂義士辞典」でも、第一に、遺恨の原因が不明だとして、次のように書いています。
重野安繹博士は「赤穂義士実話」に「遺恨の事柄を後からああであった、こうであっ
たというのはあて推量である」といっている。もっとも遺恨に思う事柄は本人だけしかわ
からぬ。それでは話にならぬから前後の事情を考慮して種々の説が生まれた。
冒頭から、原因は不明と明確にしています。
2、二人の不和の原因は賄賂
「賄賂が原因だという者がほとんど大部分を占めているが、ここにも諸説があって次の三
つにわかれる」として次の三点をあげています。
(イ)全然進物をしなかったというもの。
「徳川実記」「赤穂鐘秀記」「赤穂義人録」に書かれている。
(ロ)進物は贈ることは贈ったが、伊達左京亮とくらべて少なかったというもの。
熊田葦城の「赤穂義士」に書かれている。
(ハ)前簾に進物をたくさんおくる事は却って失礼だから、格式だけにとどめて事すんでから多くしようとしたというもの。
「江赤見聞記」に書かれている。
3、賄賂のことから上野介が内匠頭を窮地に追い込んで苦しめようとしたとする説。
「内匠頭からの進物が少なかったので上野介の心証を害し、内匠頭を窮地に追い込んで苦しめようとした話が五つある」として、テレビや映画でもしばしば取り上げられる次の5つの話を挙げています。
(イ)殿中における服装を違えて教える。
白書院での将軍奉答の日の服装は、烏帽子大紋であるべきものを長上下と教えたこと。
(ロ)伝奏屋敷の精進料理
勅使、院使に供する料理に魚鳥を用いないよう、上野介の使いが浅野家に伝えたこと。
浅野家では心得がたく二種の料理を用意するとともに、伊達家へ問い合わせると、魚鳥を用いていることが分かって、浅野家は落ち度なく済んだ、という内容。
(ハ)上野寛永寺、芝増上寺へ勅使、院使の参詣の時の畳替え
「これは赤穂義士のことを書いた本にはほとんどといってもいいほど書いてある。」と
あります。
内匠頭が上野介に勅使休息所の畳を取り替えるかべきか尋ねたところ、繕う程度でよい
と返答されたが、伊達家には新規に取り替えさせていたというもの。
(二)伝奏屋敷の金屏風
勅使・院使が着府する前に吉良上野介が伝奏屋敷検分した時、浅野家では狩野元信の墨
絵の屏風を用意していたため金屏風に取り替えるよう指導したこと
(ホ)殿中における慣例を内匠頭に十分教示しなかった。
勅使の出迎えを式台の上でするのか下でするのかについて浅野内匠頭が尋ねたところ、
吉良上野介が嘲笑ったこと
4、上野介が内匠頭にある要求をして拒絶されたので不和になったという説。
具体的には次の二つの説が紹介されています。
(イ)「狂言袴」という茶入れ。
「これは余程後世になっていい出された説」として高山喜内著「元禄快挙義士の研究」
を引用し、浅野家が所蔵する狂言袴という茶入れを上野介が譲るよう所望したところ、家
宝だとして断られたが、後に某老中には譲ったというもの。
(ロ)美少年のことから仲違いになったという説
内匠頭の美少年の家来を上野介が譲るよう所望し断られたが、後に大老堀田筑前守か
ら所望された時は譲ったので、内匠頭を憎悪した、というもの。
5、内匠頭と上野介が、書画骨董や謡曲について衝突したという説
次の二つの話が具体的に紹介されています。
(イ)書画の鑑定
一休和尚の軸の真贋、歌道の問答で意見が相違し、上野介が恥をかく結果となったた
めに遺恨となったというもので、好事家のつくり話だろうと書いてあります。
(ロ)内匠頭の謡曲
明治末期の小野利教著「赤穂義士真実談」に出ている話で、松平伊予守邸の謡の会で、
内匠頭は一曲「熊野」を謡ったところ、上野介が〈くせがあってよくない〉と非難したの
で、内匠頭が遺恨に思ったというもので、「これも前の一休の照月の鑑定と同様のこしらえ
話と思われる」と書いてあります。
6、吉良の領民が赤穂の製塩の秘法を探りに行って、殺されたという説
これは最近になって言い出された話で、海音寺潮五郎氏が「この説はよく辻褄が合って、
どこも無理がない。しかし何にしても新説だ。さらに精密な検討をする必要があろう」と
書いているが吉良出身の尾崎士郎の作り話である」
と書いてあります。
7、上野介と内匠頭の性格の相違によるという説
「浅野内匠頭と吉良上野介の人物評は、評者の立場立場によって異なるが、両者の性格が非常に違っていたことには間違いはない。衝突の原因を両者の性格の相違から来たしたものとした人はずいぶん多い」と書いてあります。
最後に書かれている「赤穂義士事典」の結論は次です。
要するにどの説にも真因を裏付けるに足る記録も確証もないのである。
江戸城内における刃傷事件はほかにもあって、(中略)ともに当時の権勢ならびなき大官が惨殺されて、世間に大きな衝動を与えているにもかかわらず、その原因はいずれも想像の範囲を出ず、真因は伝えられていない。内匠頭の場合も前期のように諸説紛々、正にこれというものがない。