いわゆる「赤穂四十六士論」です。
大勢の儒学者たちが「赤穂四十六士論」を書いています。
主なところを書くと次のようです。
林鳳岡(はやしほうこう)「復讐論」
室鳩巣(むろのきゅうそう)「赤穂義人録」
佐藤直方(さとうなおかた)「四十六人之筆記」
浅見 絅斎(あさみ けいさい)「四十六士論」
荻生徂徠(おぎゅうそらい)「四十七士論」
太宰春台(だざいしゅんだい)「赤穂四十六士論」 などです。
この中で、赤穂浪士の行為を肯定しているのが、林鳳岡「復讐論」、室鳩巣「赤穂義人録」、浅見絅斎(けいさい)「四十六士論」です。
否定しているのが佐藤直方「四十六人之筆記」、荻生徂徠「四十七士論」、太宰春台「赤穂四十六士論」です。
今日と明日は、その「赤穂四十六士論」の概要について、宮沢誠一氏著「赤穂浪士」と赤穂市発行「忠臣蔵」に基づいて書いてみたいと思います。
今日は、この中で、肯定論について紹介します。
赤穂浪士の切腹後、いち早く「復讐論」を書いたのは、大学頭林鳳岡でした。
林鳳岡は、赤穂浪士を賛美する立場でした。
宮沢誠一氏は
「鳳岡は次のように主張する。赤穂浪士からすれば主君の讐を討つのは道義的に正しいけれど「法律」の立場からすれば、たとえ「亡君の遺志を継ぐ」行為でも、法を犯すものは必ず罰せられる。道徳と法律は立場を異にするが、「並び行われて」矛盾しない。(中略)
このように、鳳岡の議論は、復讐の正当性と法の絶対性を説くことによって、幕府の処罰を赤穂浪士の行為をともに肯定し、浪士の仇討を人心の教化に利用しようとするものだった。」
と書いています。
赤穂市発行の「忠臣蔵」には
「林鳳岡は、幕府の法に触れることを知りながらも主君に対して義の道を全うせざるをえないという、幕府への義とわが主君への義が分裂した状態を現実として肯定してとらえているのである。将軍・大名と大名・家臣の関係が併存し、それぞれ独自の世界をもち、どちらか一つを完全に否定し切れない幕藩制の構造のもつ矛盾を、現実として矛盾のまま承認する形で四十六士を論じたのが林鳳岡であった。」
と書かれています。
浅見絅斎(あさみ けいさい)は、山崎闇斎の高弟で、佐藤直方・三宅尚斎とともに「崎門三傑」と呼ばれた儒学者です。
浅見絅斎は、佐藤直方の否定論を書いた「四十六人之筆記」に対する反論として「赤穂四十六士論」を書いています。
「赤穂四十六士論」について宮沢誠一氏は
「浅見絅斎は、吉良上野介が「私欲私意」から浅野内匠頭に「恥辱」を与え、激怒した浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた「喧嘩」であると考える。
「喧嘩」であるので、両者に「喧嘩両成敗の法」を適用すべきであったという。しかし、実際には、浅野内匠頭だけが処罰され、吉良上野介は何の「責罰」も受けなかった。これでは、浅野内匠頭は吉良上野介に殺されたも同然であり、浅野内匠頭の家臣としては吉良上野介義央を打たなければ「大義」はいつまでたっても実現しないと主張する。」
と書いて浅見絅斎の考えを説明してくれています。
赤穂市発行「忠臣蔵」では、 浅見絅斎の「赤穂四十六士論」について、
「浅野内匠頭の仇は吉良上野介であると主張し、四十六士の行為は幕府法に背くが、それしないことには武士の道がたたないからしたことであり、喧嘩両成敗の法に照らして忠義の行動と断言するのである。浅見の論は江戸時代に幕府法と喧嘩両成敗の慣習法が対立する要素を持ちながら併存し、機能していた社会の実態を踏まえて論じたものということができる。」
と評価しています。
室鳩巣の「赤穂義人録」は四十七士が、生を捨てて義を取り、君臣の義を重んじたことに感動して筆を執ったもので、史実の正確な記録を目標として書いた物です。
赤穂市発行の「忠臣蔵」には
「「赤穂義人録」は林信篤の「復讐論」と並んで赤穂諸士を義人とした著作の最初のものであり、義か不義かの論争の出発点としての位置を占める。」
と書いてあります。