これに関して、以前に書いた 「大山捨松」 についての記事へのアクセスが非常に多くあります。
昨日は、「捨松」と「忠臣蔵」の記事を中心にアクセス数が1200を超えました。
そこで、山川捨松と大山巌の結婚について書きます。
なお、今日は「忠臣蔵」の記事も書いてありますので、 「『忠臣蔵』前史(江戸検お題「本当の忠臣蔵」103)」 もお読みください。
山川捨松については、以前は留学までの略歴を書きましたので、今日は、その後について書きます。
山川捨松は、明治15年10月、アメリカから津田梅子とともに帰国します。
新知識を身につけて、日本や女子教育の発展に力を尽くそうと帰国した捨松でしたが、捨松たちを送り出した「開拓使」は廃止され、女子教育を向上させようという意気込みは文部省にはなくなっていました。
こうしたことから「八重の桜」でも捨松が言っていましたが、「何のため国費を使ってアメリカに送ったのか」というつぶやきとなります。
捨松がアメリカで得た知識を生かす職業は当時日本にはありませんでした。
ちょうどその頃、捨松に持ち込まれた結婚話が、大山巌との結婚話です。
大山巌は、同じ薩摩藩出身の吉井友実の長女・沢子と結婚して3人の娘がいました。
しかし、沢子は三女出産後の肥立ちが悪く死去していました。
吉井友実は、大山巌と可愛い孫のため、後添いとなる女性を探し求めはじめました。
大山巌は、ヨーロッパで4年間勉強した洋行帰りのハイカラ好みであり、外国人との付き合いも多い人物でした。とても並の女性では大山夫人は務まらないと考えていた吉井が、白羽の矢を立てたのが捨松でした。
大山巌は、早速、吉井友実を通じて、結婚の申し込みをしました。
しかし、山川家では、大反対です。
そうです。大山巌は、会津戦争当時、新政府軍の砲兵隊長として会津若松城砲撃の指揮をとっていたのですから。(とはいっても、八重に銃撃され、一日で、戦場を離れることになりますが・・)
その後の会津藩士の苦労は甚だしく、薩長に対する恨みは、10年や20年ではきえません。
困窮している会津藩士の中では、山川家は、浩は陸軍人事局長、健次郎は東京帝国大学理学部教授となって恵まれていました。そうしたなかで、さらに薩摩出身の政府高官に妹を嫁してまで出世するのかと旧会津藩士たちから言われるを恐れもありました。
そのため、山川家の反対は強いものがありました。
しかし、大山巌は何度断られても諦めませんでした。大山巌本人が熱心に申し込みを続けました。これは「八重の桜」に描かれていました。さらに、西郷従道も山川浩を熱心に説得しました。
そして、最後は、山川浩も態度を軟化させ、本人の意見を聞くということになりました。
捨松も大変悩んだようです。
しかし、捨松は、家族ほど薩長に対する反感はありませんでした。また、帰国ても活躍する場がない自分の立場のつらさもありました。
そうしたことを考え、さらに、大山巌の人柄も考慮し、捨松は大山巌との結婚を決意しました。
明治16年 大山巌と捨松と結婚しました。そして、婚儀の1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館で、二人は盛大な結婚披露宴を催しました。
このとき捨松24歳、大山は42歳でした。親子ほどの年齢の差がありました。
そして、捨松は、鹿鳴館で毎夜のように開かれる舞踏会で、スタイルのよさと美貌と堪能な語学力と洗練されたステップから、ひときわ輝いていて、「鹿鳴館の華」と呼ばれました
その後、捨松は、女子教育や看護活動の面でも大いに活躍することになります。
右上段写真は、九段にある大山巌の銅像です。
右下段写真は、鹿鳴館跡にある鹿鳴館の碑です。