「仮名手本忠臣蔵」は、「歌舞伎の独参湯」と呼ばれ、日本演劇史上で最も上演回数の多い作品と言われています。
歌舞伎の代表的な演目とされる「仮名手本忠臣蔵」も、もともとは人形銃瑠璃のために作られた作品です。
初演は、寛延元年(1748)8月14日、大坂竹本座です。
松之廊下の刃傷事件が、元禄14年(1701)ですので、刃傷事件からちょうど47年目に上演されたことになります。
初演が14日で浅野内匠頭長矩の月命日というのも偶然ではないでしょう。

歌舞伎の三大名作は「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」と呼ばれていますが、これは、もともと人形浄瑠璃の作品です。
しかも、「菅原伝授手習鑑」は延享3年(1746)に、「義経千本桜」は延享4年(1747)、「仮名手本忠臣蔵」は寛延元年(1748)に、それぞれ大坂竹本座で上演されたものです。
三大作品が、一年ごとに上演されていて、人形浄瑠璃の黄金時代を飾りました。
当時の歌舞伎は、世間で評判となったものをすぐ取り込んでしまう力がありました。
この人形浄瑠璃として評判になった「仮名手本忠臣蔵」は、4か月後の寛延元年12月には、もう大坂角の芝居で取り上げられ、翌年には江戸三座(中村座中村座・市村座・森田座)で競演されました。
「仮名手本忠臣蔵」の作者は、竹田出雲(2代目)・三好松洛・並木千柳(せんりゅう)の三人です。
人形浄瑠璃は、享保年間以降、作者一人の単独執筆から、複数の作者による合作という体制が採られるようになりました。
単独執筆の作品がないわけではありませんが、複数の作者で合作する体制が、大坂の竹本座・豊竹座で定着しました。
この複数の作者で執筆する体制を合作者制度といいますが、「仮名手本忠臣蔵」も合作者制度で書かれています。
合作者制度では、複数の作者の中にリーダーとしての立作者がいて、その立作者が全体の構想・構成について責任を持ち、その作品の重要な部分は立作者が執筆し、場合によっては立作者以外が担当する部分について加筆しました。
「仮名手本忠臣蔵」は、誰が立作者であったかについては、「竹田出雲説」と「並木千柳(宗輔)説」があるようです。
それでは、仮名手本忠臣蔵」の作者について、少し書いてみましょう。
まず竹田出雲(2代目)です。2代目竹田出雲は、初代竹田出雲の実子です。
延享4年、父出雲の死去により初代竹田小出雲から2代目竹田出雲を襲名し竹本座の座元となります。
三好松洛は、生没年未詳です。
もと僧侶だったとも言われています。初代竹田出雲に弟子入りし、30余年に亘り、竹本座の作者として活動しました。
並木千柳は、もと備後国三原(現在の広島県三原市)にある臨済宗成就寺の僧侶でした。
30歳のころ還俗して大坂豊竹座に入り浄瑠璃作者となりました。
豊竹座では、並木 宗輔と称しました。
延享2年に、竹本座に入り、並木千柳と言いました。

