「忠臣蔵散歩」でお会いした方・メールをいただいた方・コメントをいただいた方・ブログをお読みいただいた方、こうした方々をはじめ江戸検を受験されるすべての皆様が頑張って合格されるよう声援を送ります。フレー フレー 受験者!!
フレフレ受験者!!
「これが本当の『忠臣蔵』」をテーマに書いた回数がこの記事で108回となりました。
今日のこの記事で「忠臣蔵」関連の連載は打ち止めとさせていただきますが、108回もよく続いたものだと自分でも感心しています。
これも、「忠臣蔵」の記事を皆さんが待っていただいていたからで、読者の皆様に厚く御礼申し上げます。
この記事を書くために、多くの本を読むことができ、自分の勉強にも大変役立ちました。
「忠臣蔵」は多くの人に馴染みがあるがゆえに、解説は非常に難しいテーマだと思っていました。そのため、大江戸散歩のテーマとして取り上げるのは、まだまだ早いと思っていましたが、、今回、ブログの記事を書くことになり、思いがけず、早めに取り組むことができました。
ブログを書くために得た情報・知識をお披露目する場も、文京学院大学さんに設定していただき、「忠臣蔵ガイド」の方も少し自信が持てるようになりました。
ということで、この「忠臣蔵」の連載は私にとって大変有意義な連載となりました。
長いことお読みいただいた皆様に深く感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
さて、最後の「忠臣蔵」の記事は、今まで書いてこないけれど、覚えておくと得しそうな一口知識をいくつか書いてみます。
これが江戸検に出れば儲けもの的な話題です。
1、「忠臣蔵」の意味
「忠臣蔵」という言葉は、言うまでもありませんが「仮名手本忠臣蔵」から出た言葉です。「仮名手本忠臣蔵」というタイトルの意味するところはまだ書いていなかったのでここで書きましょう。
「仮名」は「かな」と読み、現在であれば「五十音」、昔は「いろは」を言います。
その文字数が四十七で、ちょうど赤穂浪士四十七士と一致するので、「仮名」としたといわれています。
また「仮名」は「仮の名前」で、「登場人物はすべて実在の人ですよ」という意味が込められているという説もあります。
また、「手本」とは「人間のお手本になる忠義の士」という意味が込められているといいます。
「忠臣蔵」とは、「忠臣内蔵助」が短縮した名前という説や「忠臣が大勢詰まった蔵」という意味をこめた名前だという説もあります。
2、赤穂浪士の戒名の出典は「碧巌録」
赤穂浪士の戒名には、「刃」と「剣」がついているのが特徴です。
この戒名は、当時の泉岳寺の住職の第九世酬山長恩和尚がつけたものです。
赤穂浪士が勇ましいから「刃」と「剣」を適当につけたかというとそうではありません。禅の教科書に「碧巌録(へきがんろく)」という本があります。
岩波文庫で出版されていますので、興味ある方はご覧ください。
その第41則「趙州大死底人剣刃」という項目があります。その中の「剣刃(やいば)」から採ったものです。
第41則全文を読み下し文で岩波文庫「碧巌録」から書くと次のようになります。
垂示に云わく 是非交結の処は、聖もまた知ること能わず。
逆順縦横の時、仏祖もまた弁ずること能わず。
絶世超倫の士となり、逸群大士の能を顕わす。
氷凌(こおり)の上を行き、
剣刃(やいば) の上を走(ゆ)くは直下(まさ)に麒麟の頭角(つの)の如く、
火の裏(なか)の蓮華の如し。
宛(あたか)も超方なるを見て、始めて同道なることを知る。
誰かこれ好手(やりて)の者ぞ。
試みに挙(ご)し看ん。
3、勅使饗応役と津和野の銘菓「源氏巻」の関係
元禄に入ってからの勅使饗応役の一覧は、 勅使饗応役(江戸検お題「本当の忠臣蔵」12) に書いておきました。
この中で、津和野藩主亀井茲親(これちか)は、元禄3年、元禄7年、元禄11年と3年おきに3回も勅使饗応役を勤めています。
このいずれかの時に、亀井茲親は指南役の吉良上野介に教えを請いますが、吉良上野介は接待の方法を教えなかっただけでなく、逆に愚弄したため、亀井茲親は吉良を切ろうと決心し、藩の家老であった多胡真蔭((たごさねかげ)にその旨伝えます。多胡は反対しませんでしたが、早速吉良上野介に小判を進上して機嫌を取り、吉良上野介から亀井茲親にたいして勅使の接待の方法を伝授させ、結果的に騒動が起こるのを阻止しました。この話を「仮名手本忠臣蔵」に取り込んで、多胡真蔭が加古川本蔵となり、亀井茲親が桃井若狭介となったと言われています。
また、津和野には、吉良上野介に送った進物「小判を包んだ形のお菓子」が原型になった「源氏巻」という菓子があり、津和野を救った縁起の良いお菓子として、津和野の銘菓として現在も広く親しまれているそうです。
「源氏巻」は、餡をカステラ生地で包んで焼いた御菓子だそうです。(右写真)
4、大石内蔵助が表門にいた事情
吉良邸討入りの際、表門は大石内蔵助が指揮を取り、裏門は大石内蔵助主税が大将となり吉田忠左衛門が補佐しました。
これは、大石内蔵助が赤穂浪士一同の大将だからと単純に考えがちです。
しかし、大石内蔵助が表門に居たのはもっと深いわけがありました。
その事情が伊予松山藩の波賀朝栄が残した「波賀朝栄聞書」に次のように書かれています。
大石内蔵助は表門にいました。
それは、吉良邸に討ち入った際、公議の役人が駆けつける時は、必ず表門にやってくると思われ、その際には、門を開けずに、「現在、吉良上野介を討っている最中で、屋敷内に同志が散っています。こうした情況で中に入ると思いがけないことが起きるかもしれません。人数を揃えて門を開けるまで少しお待ちください」と返答する手筈だったためです。。
つまり、大石内蔵助が表門にいたのは、討ち入った際にやってくるであろう公議の役人に備えるためという事情もあったのです。
5、吉良邸茶会の主賓は小笠原長重
12月14日には吉良邸では茶会が開かれました。
それでは、この茶会の主賓は誰だったのでしょうか?
こうした疑問がおきますよね。
それで問題意識をもって調べていたら、ウィキペディアにそのことが書いてありました。
時の老中小笠原長重のようです。
この裏が取れたら模擬試験の問題にしようと思いましたが、今日まで残念ながら確認がとれませんでしたので、出題しませんでした。
確かかどうか確認はとれていませんが、頭の片隅に置いておいてほうがよいと思いますので書いておきます。
小笠原長重は、三河吉田藩第2代藩主小笠原長矩の次男で、元禄3年(1690)第4代藩主となりました。
既にご存じの通り、山田宗徧は、吉田藩小笠原家に仕えていました。そして、元禄10年(1697)に小笠原家を辞去しています。
ですから、山田宗徧は少し前まで小笠原長重にお仕えしていたことになり、昵懇の間柄だったと思われます。
それでは、再び
受験される皆さん 頑張ってくださ~い
最後にお願いです。
試験の様子をコメントもしくはメールをしていただけると大変うれしく思います。
よろしくお願いします。

