11、土屋主税邸の所在場所(初級レベル)
吉良邸隣地の旗本土屋主税が赤穂浪士を助勢する話は、テレビや映画の「忠臣蔵」の名場面の一つでもありますので、受験者の方はよくご存知だと思います。
しかし、土屋主税邸がどこにあったについては勉強しないと意外とわからないと思いますが基礎知識でもあります。
私のブログでは、 吉良邸の大きさ(江戸検お題「本当の忠臣蔵」62 で説明してあります。
12、実子2人と共に討ち入った赤穂浪士の名前(上級レベル)
赤穂浪士四十七士の中には、一族で参加している人たちがかなりいるので、このテーマは出題確率の高いと思っていました。
そこで、模擬試験問題第1回の第6問で同じテーマの問題を出題しています。
それを踏まえて準備されている方には易しい問題であったと思います。
しかし、多くの人にとっては、赤穂浪士の人間関係を覚えていかなくてはならない知識ですので、上級レベルとしました。
13、上杉家が援軍出さなかった理由(中級レベル)
赤穂浪士が吉良邸に討ち入った場合、必ず上杉家の討手はかかるものと思われていました。しかし、上杉家の討手は出動しませんでした。
テレビや映画の「忠臣蔵」では、千坂兵部または色部又四郎が諌止したことになっていますが、実は、老中の意向で、上杉家は出動しませんでした。
上杉家年譜には次のように書かれています。
健士各大勢已ニ出勢ニ及シトスル処ニ、畠山下総守義寧桜田邸ヘ馳来ラレ、今暁ノ変ニ依テ定テ討手ヲ差向ラル儀モ此有シカ今比静謐之御代ニ於テ江府之騒動ニ及シ事勿体ナシ兇徒ノ奴原 公儀ヨリ不日御成敗アルヘキ儀ナレハ必
このことは、 上杉家の対応(江戸検お題「本当の忠臣蔵」69) で取り上げておきましので、ブログをお読みいただいた方には易しかったと思いますが、中級レベルとしました。
14、赤穂浪士が引き揚げる際に築地本願寺に投げ込まれた朱鎗の持ち主(中級レベル)
築地本願寺には、右写真のように間新六の墓が現存しています。
その説明板には次のように書かれています。この説明を読んでいただければ、朱鑓の持ち主が間新六であることがわかると思います。
間新六光風(はざましんろくみつかぜ)(1681~1703)は、播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野長矩の家臣、間喜兵衛光延の次男として生れました。元禄15年(1702年)父および兄の十次郎光興とともに、主君、浅野長矩の殿中刃傷事件の仇討ちに加わり、翌元禄16年(1703年)2月に麻布の毛利邸で切腹し、姉聟(あねむこ)の中堂又助が当寺に葬りました。他の義士と共に、高輪泉岳寺(港区)にも墓石がありますが、新六のみが当寺に葬られたのは、当寺の檀徒であったのか、あるいは、生前の特志によるものであろうといわれています。
本願寺築地別院(築地本願寺)には、新六が吉良邸討ち入りののち、泉岳寺に引き揚げる途中、自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて、当寺内に投げ入れたという伝承が伝えられています。
この供養塔は、当初のものが、天保5年(1834年)火災にあって焼失したため、羽佐間宗玄が再建したものです。
平成15年(2003)3月 中央区教育委員会
15、討入りの報告を聞いた筆頭老中阿部正武の反応(上級レベル)
この部分につい解説した本は、赤穂市発行の以外には私が読んだ本ではありませんでした。そこで上級レベルにしました。
「忠臣蔵第一巻」には、次のように書かれていてます。
筆頭老中阿部豊後守正武などは「今日このような節義の士が出たことは、まさに国家の慶事というべきである」と喜んだ。老中がそろって将軍綱吉に謁して報告し。その処分を請うた。綱吉も大いに喜び、即決は酒、ゆっくり処分を考えるため、当分大名にお預けとsるよう指図した。
これにて、正解は「『国家の慶事である』と賞賛した」になります。
16、赤穂浪士切腹前夜に、細川邸で開かれた催しの内容(中級レベル)
細川家に預けられて赤穂浪士たちが接待役であった堀内伝右衛門にお礼に芸をみせたことはいろいろな本に書かれているので、ご存知の方が多いと思います。
「堀内伝右衛門筆記」には次のように書かれています。
富森助右衛門、大石瀬左衛門何も若キ衆色々咄ともにて頓而埒明キ可申候、御暇迄ニ芸つくし懸御目可申候とて御番衆之見申さぬやうニ枕屏風之蔭ニて堺町・木挽町之おとり狂言之真似を被仕、そろそろさワき被申候
これにより、堺町や木挽町すなわちち歌舞伎の踊りや狂言の物まねをしたと書かれています。
よって正解は「物真似芸大会」ということになります。
17、大石内蔵助の辞世の和歌(初級レベル)
これはあまりにも有名な和歌ですので、正解率は相当高いと思います。
赤穂浪士の辞世の歌や句は、出題確率の高いテーマだと考えていました。
そのため、模擬試験問題第10回に第10問で出題しました。
しかし、最も有名な大石内蔵助の辞世の歌が、そのまま出題されるとは思いませんでした。これはサービス問題といってよいのではないでしょうか。
なお、この辞世の歌は、後世の創作ではないかという説があることを追加しておきます。
「これが本当の「忠臣蔵」221ページに書かれています。
18、神崎与五郎の不満の理由(上級レベル)
これは、選択肢がないと超難問だと思います。
神崎与五郎は、岡崎藩水野家で最後に切腹しました。通常、切腹は身分の高い者から順に行いました。
神崎与五郎の直前に切腹したのは三村次郎左衛門でした。
三村次郎左衛門は7石2人扶持酒奉行・台所役であり、5両3人扶持徒目付の神崎与五郎より低い身分でした。
それにもかかわらず神崎与五郎が最後に切腹することとなったため、神崎与五郎は「いささか閉口でござる」と不満の言葉を残したと言われています。
なお、このエピソードの出典が、まだ不明ですので、引き続き調べてみます。
19、「仮名手本忠臣蔵」6段目の早野勘平の名ゼリフ (中級レベル)
「忠臣蔵」についての文化面からの出題が予想外に少なく驚きました。
文化面からの出題は、この問題だけでした。
「仮名手本忠臣蔵・六段目」の早野勘平の名ゼリフ『色に耽ったばっかりに』は、塩冶判官が松の廊下で高師直に刃傷に及んだ時、勘平は恋人の腰元・お軽と逢引きしていたことを悔いたことばです。
「仮名手本忠臣蔵」の中の名ゼリフの一つで有名なセリフですが、文化面で唯一の出題ですし、私のブログでも説明していませんので中級レベルとしました。
20、大石内蔵助三男大三郎の赦免後の人生(初級)
赦免され後の遺児については、模擬試験問題第8回第6問で出題していますので、模擬試験問題をされた方は易しく解けたと思いますが、元々、大石大三郎が広島藩に1500石で召し抱えられたことは基礎的知識と思われるので初級レベルとしました。
以上、私なりの評価や問題についての説明をさせていただきましたが、私の評価が正しいわけでもありませんので、あくまでも参考としてとらえてください。
すでに竹翁さんからはコメントいただきましたが、よろしければ他の方もコメントをしていただければ幸いです。

