奉行所というのは、役所の部分と町奉行の私邸の部分とからなっていました。
現在、首相官邸と首相公邸が同じ敷地内で隣接しているのと同じような状態でした。
なぜ、こうなっていたかいうと、町奉行の仕事は大変激務でした。朝から夜遅くまで仕事をせざるをえないほどでした。
そのため、町奉行が自分の屋敷から奉行所に通勤していたのでは大変なので、今で言えば職住接近させた訳です。
そのため、町奉行に就任すると、自分の屋敷から奉行所に引っ越ししました。
数寄屋橋門内の南町奉行所は、広さが約2620坪ありました。
表門は東側にありました。
表門があった場所は、現在は有楽町イトシアとなっています。
その敷地の概略を描くと、西側は、有楽町駅脇のガードまで、南はマリオンとの間の道路脇まで、北はほぼ有楽町駅の中央口あたりだったと思われます。
下記地図のオレンジの範囲内が南町奉行所だったと思います。ただし、これはあくまでも個人的な見解です。

南町奉行所は、役所部分と奉行の自宅部分とからなっていました。
表門が東側にありましたので、東半分が役所部分となっていました。
そして、町奉行やその家族が私的に出入する裏門は西側にあり、西半分が自宅部分でした。
表門を入ると正面は奉行所玄関となっていました。
その玄関までは、まっすぐに五六尺の幅の青板の敷石、それを残して一面に那智黒の砂利石が敷き詰めてあったようです。
玄関脇には若い与力が勤務し市民の訴願を受理する「当番所」がありました。
表門を入った左手つまり南側に時代劇によくでてくる「お白州」がありました。
「お白洲」とは、白い砂利が敷かれたいたことに由来しているそうです。南町奉行所の絵図面を見ると「砂利敷」と書かれています。
その先が「公事場」となっていますが、そこに町奉行が座って尋問や判決言い渡しを行っていました。
現在のイトシアの中では、南西端にある「メガネスーパー」の店舗の奥の部分辺りが「公事場」、「砂利敷」であったと思われます。
右写真は、南西方向から有楽町イトシアを撮った写真ですが、右手の建物が有楽町マリオンです。
間の道路の左端辺りまでが南町奉行所であったと思われます。
そして、左手に看板が見えるのがメガネスーパーですが、そのメガネスーパーの店舗の奥が「お白州」であったと思われます。
南町奉行所跡は、都指定旧跡「南町奉行所跡」になっていて、有楽町駅前地区再開発事業が実施されるのに際して、発掘調査が1次平成17年4月25日~6月30日、2次11月17日~12月19日の間実施されました。この発掘により、大名屋敷期の遺構は131基、南町奉行所期の遺構は23基検出され、両時期に伴う多くの遺物が出土したそうです。
遺構としては、奉行所表側地境の石組下水溝、穴蔵、井戸、上水遺構などが発見され、遺物としては、陶磁器のほか、「大岡越前守御屋敷ニ而~ 」と墨書された木札などが出土したそうです。
有楽町イトシアの地下1階広場には、この発掘調査で出土した穴蔵を復元したものが展示されています。(右最上段写真参照)穴蔵というのは、火災が起きた際に重要品を焼失しないように保護するため地下に設置された木製の蔵です。
穴蔵のなかに重要品を放り込み蓋をしたうえで、土をかぶせ、そのうえに濡れたふとんや畳をかぶせて焼失するのを防ぎました。
そのほか、遺蹟からは上水道管も出土しました。その江戸時代の水道管である木樋が穴蔵脇の木製のペンチとなっています。(右上写真)さらに、出土した石を利用してベンチが、地下1階に作られています。(右写真)
この木製ベンチや石製ベンチで結構サラリーマンたちが休息しています。
しかし、木製ベンチや石製ベンチが南町奉行所跡から出土した品であることを何人の人が知っていることでしょうか。
赤印が、穴蔵が展示されている場所です。有楽町駅の中央口を出て、イトシアの地下1階広場の壁に展示されています。

