数寄屋橋交差点から鍛冶橋交差点に向かって外堀通りを歩いていくと高速道路を潜ります。

この高速道路は、京橋川を埋め立てて造られたものです。
この高速道路は、埋め立てられた京橋川の上に建物を建て、その屋上を高速道路としたもので、東京高速道路株式会社という会社が運営しています。
京橋川は、外堀から東に分流し、白魚橋の先で楓川、桜川(八丁堀)・三十間堀と合流した延長0,6Kmの川でした。。
京橋川が開削された時代は正確にははっきりしませんが、徳川家康が江戸に入府した後、慶長年間に行われた最初の天下普請で外堀とともに開削された水路であるとされています。
京橋川の埋立ては昭和29年から始まり、昭和34年には水路としての京橋川は完全に消滅したそうです。
京橋川が外堀と分流する場所、現在で言うと外堀通りが東京高速道路を潜る場所にあった橋が「比丘尼橋」です。
現在では、昔の面影はまったくありませんが、この比丘尼橋が、浮世絵師歌川広重によって描かれています。
その絵が、歌川広重が書いた「名所江戸百景」の一つ「びくにばし」です。
歌川広重というより安藤広重といったほうがなじみがありますが、歌川広重が正しい名前です。

「比丘尼橋」という名前は、ここに比丘尼という売春婦の宿があったとのことからだといわれています。
比丘尼というのは、本来は、尼僧のことを言います。しかし、江戸時代、尼僧の姿をした下級の売春婦がいて、その売春婦のことを比丘尼と呼びました。
ここの橋が比丘尼橋と呼ばれるようになったのは、売春宿に由来することから、明治になってからは、売春宿を嫌ったようで、昭和5年には、「城辺橋」に変更になりました。
しかし、橋がなくなったことから、城辺橋という名前も消えてしまいました。
しかし、よく探すと、近くのビルの名前としてに残っていました。
さて、「びくにはし雪中」の絵ですが、左側に「山くじら」の看板が描かれていますが、「山くじら」とはイノシシのことです。
両国橋の東のたもとに「ももんじや」という猪料理のお店が現在でもありますが、この看板をかかげたお店は「尾張屋」という当時有名な猪料理のお店です。
江戸時代は、ご存じのように、獣の肉を食べるのは禁止されていました。
しかし、くすり食い」といわれ。滋養をつけるためという名目で、獣の肉を食べていました。そうしたお店がここにありました。
右の看板に「○やき」「十三里」とありますが、こちらは焼き芋屋の看板です。
丸ごと焼いて売るので「○やき」、「十三里」とは「栗(九里)より(四里)旨い十三里」ということです。
そして、屋台を担いだ人がわたっているのが「比丘尼橋」です。
さらによく見ると、奥にはお城の堀の石垣も書かれています。
比丘尼橋の奥に、火の見櫓が見えます。
この火の見櫓がどこの火の見櫓か書いた本がありませんが、南町奉行所には、火の見櫓があったと書いた本がありますので、南町奉行所の火の見櫓がではないのかと私は推測しています。

