この京橋プラザの南側が京橋公園となっています。京橋公園に、「蜊河岸(あさりがし)」の説明板があります。
今日は「蜊河岸」のご案内です。
江戸時代、京橋プラザの少し北側で、北から流れてくる楓川、西から流れてくる京橋川、さらに南西へと流れる三十間堀が交差していました。
それぞれの川筋には、弾正橋・白魚橋・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから、この付近は「三つ橋」と呼ばれていました。
右写真は、蜊河岸の説明板に記載されていた「三つ橋」の地図です。そして、京橋プラザがある辺りは、三十間堀川が流れていました。
蜊河岸は、江戸時代以来、三つ橋付近の河岸地の俗称でしたが、明治になって、三十間堀に架かる真福寺橋から築地方面へと南に延びる東岸の河岸地の正式名称となりました。
蜊河岸には、幕末の江戸三大道場の一つに挙げられる鏡新明智流の剣客桃井春蔵の「士学館」がありました。
江戸三大道場とは、神道無念流の斎藤弥九郎の「練兵館」、北辰一刀流の千葉周作の「玄武館」と桃井春蔵の「士学館」です。
この志学館で学んだのが、2年前の「龍馬伝」で活躍した武市半平太や岡田以蔵です。武市半平太は、桃井春蔵に腕前と人物を高く評価されて、塾頭にまでなっています。
武市半平太がここに入門したのは、土佐藩邸から近かったためと言います。
土佐藩の上屋敷は、有楽町駅前の国際フォーラムにありました。そして、下屋敷は、この近くの現在中央区役所になっている場所にありました。
武市半平太は、土佐藩の郷士でした。そのため、江戸に出てきた際にも、上屋敷ではなく下屋敷に住んでいたと言われています。
その下屋敷から近かったため、士学館に入門したと言われています。
なお、坂本龍馬は、ここではなく、ご存じのように千葉周作の弟千葉定吉の桶町道場で学んでいます。
京橋公園を出て、高速道路に架かる新富橋からは、中央区役所が良く見えて、江戸時代土佐藩邸が、蜊河岸から至近距離にあったことが実感できます。
右写真の手前最下部が新富橋で、写真中の黒っぽい建物が中央区役所です。
江戸時代の切絵図を見ると、現在の新富橋の南西辺りには、伊予吉田藩伊達家の上屋敷がありました。伊予吉田藩と言えば、3代藩主伊達村豊が、元禄14年に、勅使饗応役を勤めた浅野内匠頭長矩とともに院使饗応役を勤めました。
伊予吉田藩の上屋敷が三十間堀川沿いにあるということは、下見の際に初めて知りました。
右写真は、新富橋の東側から西側方向を撮った写真ですが、写真中央のタワーマンションの方向に伊予吉田藩の上屋敷がありました。
赤印が「蜊河岸」の説明板です。緑印が「京橋公園」で、青印が「新富橋」です。

