しかし、地域としての「八丁堀」は、もっと広範囲です。
現在も川として残っている日本橋川と亀島川、現在は首都高速都心環状線となっている元の楓(もみじ)川、そして昨日ご案内した桜川(旧八丁堀)に囲まれた範囲が、地域としての「八丁堀」で、現在の町名では八丁堀のほか日本橋茅場町、日本橋兜町までを含めた広い範囲を通称したものです。
町奉行の与力・同心の「八丁堀組屋敷」として知られているのもこの範囲内にあります。
「八丁堀」といえば、「与力同心の町」というイメージが非常に強いわけですが、江戸時代の初めは「八丁堀」は「寺町」でした。
文禄4年(1595)に日蓮宗の大仙寺が建立されたほか、慶長4年(1599)に4つの寺が起立されたといいますし、慶長16年(1611)以降多くの寺院の創建がされました。しかし、寛永13年(1636)の江戸城拡張工事に先立ち、その前年寛永12年(1635)に、八丁堀寺町の寺院は、玉円寺だけを残してすべてのお寺が江戸の郊外へ移転しました。
今年10月に文京学院大学の「忠臣蔵散歩」で荻生徂徠が眠る「長松寺」をご案内しましたが、この「長松寺」もこの時に移転したお寺です。
こうして、八丁堀にあったお寺が移転した後に、与力同心の組屋敷ができました。
笠間良彦氏著「江戸町奉行所事典」(48ページ)には「町奉行所与力は、古くは本所二の橋から報恩時前にかけて住んでいた。しかし、それでは町奉行所に遠いので不都合が生じた。そこで、日本橋大坂町つづきの青山播磨守の屋敷跡に写り、正徳3年に八丁堀の屋敷に移ったのである」と書いてあります。
当時の本所は隅田川の対岸であり橋も架けられていなかったため、本所に町奉行の与力の住居があったのか疑問の残る所ですが、町奉行所への通勤の便を配慮して「八丁堀」が与力同心の組屋敷として選ばれたという事情があったようです。
東京メトロおよびJR京葉線の「八丁堀」駅の近くに「京華(きょうか)スクエア」という中央区の公共施設があります。
ここは元京華小学校と言いましたが、現在は、中央区のシルバー人材センターや早稲田大学エクステンションセンターになっています。
この入口に「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」と書かれた説明板があり、次のように書かれています。
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年(1635年)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀一帯に集中しています。八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流に羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵2人扶持(ぶち)で、100坪ほどの屋敷地でした。
これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
平成13年(2001年)3月 中央区教育委員会
与力・同心の組屋敷は、京華スクエアを南端として、北は兜町から茅場町一帯までに立ち並んでいました。
八丁堀組屋敷は南北で約700m(最長部)、東西約300m(最長部)で、総面積は約32,800坪(約108,000㎡)ぐらいで、与力と同心の屋敷地割合はほぼ半々だったそうです。
与力の屋敷はすべて冠木門で、門内には小砂利を敷き詰め玄関は立派な式台つきだったそうです。
そうした屋敷が46軒も建っているので豪勢な軒並みだったようです。
赤印が京華スクエアです、ここの入り口に説明板があります。青印は昨日ご案内した桜川公園です。

