今日は、「久安橋と松平越中守屋敷跡」についてご案内します。
八丁堀から東京駅八重洲中央口に向かう大きな通りが「八重洲通り」です。
この「八重洲通り」が首都高速都心環状線を跨ぐところに架かっているのが「久安橋」です。久安橋のたもとは「久安橋公園」となっていて。そこに「久安橋」について書いて石碑があります。(右下段写真)
それによると、 「久安橋」は、江戸時代に松平越中守の屋敷前に架けられ「越中橋」と呼ばれていましたが、明治元年(1868)に江戸幕府の名残りである「越中」の名が取られ「久安橋」と改称されました。
「久安橋」の名は、昔この付近に御坊主久安の拝領地があったことに因むといいます。
現在の橋は関東大震災の復興事業で建設は昭和5年3月に八重洲通りの造成とともに、架け替えられました。
最初に「越中橋」の名前の基になった「松平越中守上屋敷」について説明します。
松平越中守というのは、幕末の桑名藩松平家のことです。
この松平家は久松松平家ともいい、徳川家康の母於大の方が再婚した久松俊勝の三男定勝の家柄で、家康の異父弟にあたります。この久松松平家の本家は、伊予松山藩松平家ですが、桑名藩松平家は、その分家筋になります。
桑名藩松平家は、桑名藩の前は白河藩藩主でした。この白河藩時代の有名な藩主が、寛政の改革を実施した松平定信です。
松平定信が藩主の頃は白河藩でしたが、その子供定永の代に桑名に転封となりました。
この松平家の白河から桑名への転封は、桑名藩の奥平家が武蔵の忍藩へ移り、忍藩の阿部家が白河に移るという三大名家が同時に移る転封でした。このように三大名家が同じ時期に転封するのを三方領知替えといいます。
また、桑名藩の最後の藩主は、松平定敬(さだあき)で、京都守護職会津藩主松平容保の実弟です。
松平定敬は、京都所司代となって、京都守護職を勤めていた兄を助けました。
戊辰戦争では、会津若松、函館と最期まで戦いました。
桑名藩松平家の上屋敷は、約9000坪あったようです。
八重洲通りは、桑名藩松平家の上屋敷跡の真ん中を横断して造られています。
そして、松平家の表門があった場所あたりに、「久安橋」が架けられています。
この橋が現在またいでいるのは、首都高速都心環状線という高速道路ですが、これは、ここにあった楓川が 昭和39年に埋め立てられ、高速道路となったものです。 右写真の道路が都心環状線で、中央奥に架かっている橋が「久安橋」です。
楓川(もみじがわ)は、八丁堀と合流し、南北に弾正橋から海運橋・兜橋を経て日本橋川に注いでいた人工河川です。この河川が作られたのは、江戸時代の初めです。
江戸は、家康が入府したころは、江戸城の下まで海が入り込んでいました。現在の日比谷公園や皇居外苑は海の中でした。
そして、現在の日本橋や丸の内・八重洲は、江戸湾に突きだしていた半島でした。
八丁堀は当然海でした。そこを埋め立てて陸地をしたのです。
その工事をした頃、海辺を埋め残して運河としたのが楓川です。
つまり、現在高速道路となっている近辺は江戸時代初めは海辺だったということになります。
赤印が久安橋です。

