「歌川広重住居跡」は、ブリヂストン美術館の南側にあります。
東京駅からですと、八重洲通りを直進しブリヂストン美術館を過ぎた角を南進するとすぐあります。「歌川広重」より「安藤広重」の方が名前が通っているように思いますが、浮世絵師としての正式な名前は「歌川広重」です。
ここは、浮世絵師歌川広重が、嘉永2年(1849)から 安政5年(1858)に 61歳で死ぬまでのおよそ十年間を過ごした住居跡です。
歌川広重は、幕府の定火消組同心安藤源左衛門の長男として、八重洲河岸の定火消屋敷で生まれ、幼名は徳太郎、俗称は重右衛門、のち徳兵衛、さらに後年鉄蔵と言いました。
広重が生まれた定火消屋敷は、現在、重要文化財である明治生命館となっています。ここは元々明治生命の本社として昭和9年に建築された建物で平成9年に重要文化財に指定されました。
歌川広重が13歳のとき父母がなくなり、広重は家督を継いで定火消同心になりましたが、文化8年(1811)15歳のとき歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、歌川を称することを許されました。
26歳の時には、火消同心の家督を譲って浮世絵師に専念しました。
天保3年(1832)保永堂から出した「東海道五十三次」は大ヒットし、それ以来、風景画家として有名になりました。
特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、私がお江戸散歩で江戸を案内する際に、大変お世話になっている作品ですが、この「名所江戸百景」は安政3年(1856)2月から同5年(1858)10月にかけて制作されたもので、この住居で描いた代表作です。歌川広重の隣は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家のお屋敷でした。
狩野四家とは、木挽町狩野家、鍛冶橋狩野家、中橋狩野家、浜町狩野家です。
中橋狩野家は、狩野家の宗家にあたりますが、御用絵師として活躍したのは鍛冶橋狩野家でした。
赤印が「歌川広重住居跡」の説明板の設置場所です。

