この日本橋交差点の東京駅側の八重洲通りの中央分離帯に「ヤンヨーステン記念碑」があります。正しくは、「日蘭修好380周年記念碑」と言います。
しかし、これに気が付く人がほとんどいないのが大変さびしいです。
オランダ人ヤン・ヨーステンは、「八重洲」という地名の語源となった人物です。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前に豊後国にオランダ船が漂着しました。
そのオランダ船リーフデ号に載っていたのがオランダ人ヤン・ヨーステンとイギリス人ウイリアムアダムスた ちでした。
リーフデ号にのっていた船長ヤコブ・クワッケルナックをはじめ他の船員たちは、オランダに帰りましたが、ヤンヨーステンとウイリアムアダムスの二人は日本に止まり、家康の外交顧問となりました。
ウイリアムアダムスは三浦半島に土地を拝領し、日本橋に屋敷を与えられました。そこで三浦按針という日本名を名のりました。
一方、ヤンヨーステンは屋敷を現在の和田倉門~日比谷公園間の内濠沿いに与えられました。
そこの地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれました。
その後、明治5年(1872)に馬場先門から鍛冶橋にかけての一帯が八重洲町一丁目、同二丁目と呼ばれました。しかしこの町名「八重洲町」は、昭和4年(1929)にが麹町区丸ノ内二丁目と改称され、八重洲の町名がなくなりました。そして、それから25年後、戦後の昭和29年(1954)になって、こんどは中央区に町名の「八重洲」が一丁目から六丁目まで復活しました。
こうして、東京駅の東側が「八重洲」という町名になりました。
町名の元となったヤン・ヨーステン自身は、俺の屋敷はここにあったんじゃないぞと思っているかもしれません。
日本橋三丁目交差点は、江戸時代の初期は、紅葉川と東海道が交差する場所でした。
ここに橋がかかっていて「中橋」とよばれていました。
日本橋と京橋の中という意味っだと思います。
ここが中橋ですので、中橋南地というの、このあたりを指します。
中村勘三郎が始めた芝居小屋を建てたのはこの辺りだと言われています。
ヤン・ヨーステン記念碑には、二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされています。
羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、また天球儀は”時”の象徴でもあります。左側の頭部がヤン・ヨーステン像、右側の帆船が日本漂着の際、彼が乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号です。
中央上部には当時のオランダの国策会社東インド会社のマークが置かれています。
中央下部の図柄は、古地図で方角を示すのに使われたもので太陽をモチーフにしています。四隅は波=海を図案化したもので、これも古地図にヒントを得ています。
赤印が「ヤン・ヨーステン記念碑」です。

