昨日は、江戸城内に1000人を超える食事担当がいると書きました。
そうしますと、将軍の食事はさぞ豪勢であろうと思われると思います。
しかし、あにはからずや、将軍の食事は、私達が思うほど豪勢ではないようです。
もちろん、江戸庶民よりは豪勢でしょうし、将軍によってもちがうとは思いますが、質素にしていた将軍もいました。
まず、初代の徳川家康についてですが、「江戸グルメ誕生」に書かれているところでは、徳川家康は、常に「一汁一菜」を守っていたと言います。
そして、次のようなエピソードがあるそうです。
ある時、城内の女中たちが、漬物の味が塩つぱいと苦情を言い出しました。
そこで、御膳奉行を呼んで、どうして塩っぽくしているのか問いただしたところ、奉行は「ちょうどいい味付けにすると、たくさん食べてしまい、食費が増えてしまいます。そこで塩っぽくして少しの量ですむように工夫しているのです」と答えました。家康は「あっぱれ」と言って、以後も塩っぽくするように指示したといいます。
さらに、8代将軍吉宗は、一汁三菜を厳しく守り、しかも「身を養うには一日二食で十分だ」といって、当時広がりつつあった一日三食の風を頑強に拒否したといいます。
また、別の本では、将軍ではありませんが、将軍近くに仕える幕閣に関して次のような話が載っていました。
3代将軍家光の時、家光のお咄衆役に任ぜられた大名たちは、毎日弁当を持参して登城し、城中萩の間で食事を摂ることになっていました。
そんなある日のこと、長府藩藩主毛利秀元が弁当のおかずに鮭の切り身を入れていったところ、皆が珍しがり、ついには老中阿部重次や儒者の林羅山まで顔を出してお裾分けにあずかり、「珍味!珍味!」と一同舌鼓をうったといいます。
また、5代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の食事は、「柳沢秘蔵雑実記」によれば
「朝は一汁三菜、夕御膳は一汁五菜、御夜食は一汁三菜、朝夕随分軽き品召上られ候」と書かれているようです。
ところで、料理とくに本膳料理の場合には、「一汁一菜」「一汁三菜」など「○汁○菜」と呼ばれます。
このことについて触れておきます。
「江戸のグルメ誕生」によれば「一汁一菜」といった場合には「ご飯、汁、菜、漬け物」のセットを言います。つまり、ご飯と漬け物はあるのが前提で、その他に、汁と菜(おかず)がどれだけついているかということを表しているようです。
昨年末にお邪魔した東京家政学院大学生活文化博物館の特別展「江戸の綾里」に本膳料理が展示されていました。(右上写真)
この展示されている本膳料理は、「一の膳」と「二の膳」の「二汁七菜」とのことでした。つまり汁物が二つで、菜(おかず)が七つということになります。
ですから、家康は、ご飯と汁と漬け物、そしておかずが一つ、吉宗は、おかずが三つということになります。
将軍といえども随分つつましやかな食事だということがわかると思います。
なお、江戸時代は、「汁」と「吸い物」が区別されていて、料理本でも「汁の部」と「吸い物の部」とが区別されていました。
「汁」と「吸い物」の違いは、供される場面により変わるようです。食事の席では「汁」と呼ばれ、酒肴であれば「吸い物」となります。