現在は、「霞が関」と言えば中央官庁街の代名詞になっています。
しかし、この「霞が関」という名前が関所の名前だという事をどれだけ多くの方が知っているでしょうか。霞ヶ関という名前は、元々は、関所の名前で、古代までさかのぼり、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所が「霞ヶ関」と名付けられたといいます。
霞が関という名前は「武蔵野地名考」に、「その名前は関所から雲や霞の向うに景色を眺めることができるということに由来している」と書かれているそうです。
霞が関がどこに置かれたかということは正確にはわかりません。
今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区、東京都多摩市、そして埼玉県狭山市が考えられています。
いずれも、江戸時代までは「武蔵国」と言われた地域です。
江戸名所図会では、「霞が関の旧蹟」として次のように書いてあり、千代田区の霞が関を「霞が関」としていいます。
桜田御門の南、黒田家と浅野家との間の坂をいう。往古(むかし)の奥州街道にして関門のありし地なり。(中略)「武蔵風土記」に、「荏原郡、東は霞が関に限る」とあり。この地いまは豊島郡に属せり
「霞が関跡」の説明柱は東京メトロ「霞ヶ関」駅A2番出口を出たところに設置されています。(右上写真)
なお、住居表示名は「霞が関」で、東京メトロの駅名は「霞ヶ関」です。
住居表示名は「が」で、駅名は「ヶ」となっています。昭和42年まで、住居表示名が「霞ヶ関」だったそうですので、駅名が元のままなのだと思われます。
この説明柱の前の建物は、合同庁舎で、主に総務省が入っていますが、江戸時代には、秋広島藩浅野家の屋敷がありました。総務省の南側には外務省があります。
外務省の場所は、江戸切絵図を見ると、江戸時代には、松平美濃守となっています。
この松平美濃守とは、福岡藩黒田家の事です。
江戸時代には、一国を拝領している外様大名に対して、松平姓を与える松平賜姓が行われたため、外様大名で松平姓を名乗っていた大名がいます。
福岡藩黒田家もその一つです。
そのため、松平美濃守と切絵図には表示されています。
ちなみに、総務省の安芸広島藩の上屋敷は、松平安芸守となっています。これも松平賜姓の一つです。
その、外務省と総務省の間にある坂が、「霞が関坂」です。
これも、坂下に霞が関があったことにちなむ坂名です。
右中段の写真は、坂下から眺めた「霞が関坂」です。左にある建物が外務省です。
右最下段の写真は、坂の上から眺めた「霞が関坂」です。
今年の大河ドラマは「軍師官兵衛」です。
福岡藩黒田家は、官兵衛の息子黒田長政が初代藩主です。
黒田官兵衛ゆかりの地は、姫路・福岡などで、東京にはゆかりの地はあまりありません。
福岡藩黒田家屋敷跡は、数少ない東京の黒田官兵衛ゆかりの地です。
赤印が「霞が関」の説明柱がある場所です。 青印が「霞が関坂」です。

