この戦いは、龍野城主赤松政秀を奇襲で破り黒田官兵衛の名を高めた戦いでしたが、その代わりに、母里小兵衛・武兵衛など重臣を失うという大きな痛手を負いました。
「青山・土器山の戦い」は、永禄12年(1569年)5月から6月にかけて起こりました。
永禄12年(1569)5月、龍野城主赤松政秀は三木城主別所安治と手を結び3,000の兵を率いて小寺政職を攻撃するため出陣してきます。
黒田官兵衛が動員できたのは300人でした。官兵衛は、圧倒的な戦力差があるため、当時は現在のような大城郭ではなく小規模であった姫路城での籠城では、攻撃を防げないと考え、城外に出陣しました。
黒田官兵衛は300人を率いて姫路城の西の青山に兵を伏すと、姫路を攻めようとした赤松軍を奇襲して撃退させました。
これにより、黒田官兵衛の名前が内外に知られるようになりました。
青山の戦いに敗れた赤松政秀は、同年6月に3,000の兵を率いて、再び黒田官兵衛を攻めました。
赤松政秀は小丸山に布陣し、これに対して黒田官兵衛は土器山に布陣しました。
赤松軍は、土器山の黒田軍へ夜襲しかけました。
黒田軍は、必死に防戦しますが、官兵衛の叔父井出友氏が戦死するなど甚大な被害をうけます。
夜が明け、姫路から職隆が出撃して赤松軍の後背を突き、さらに英賀城主三木通秋が南から赤松軍を攻撃し、窮地を脱することができました。
黒田軍の被害は甚大でしたが、官兵衛は守勢にまわれば勝ち目は無いと判断し攻勢に出ることし、赤松政秀の本陣のある小丸山を攻めます。
黒田官兵衛は、同じ日の夜間に小丸山の赤松軍を奇襲しました。
昼までの戦闘での戦果から黒田軍の反撃を予想していなかった赤松軍はこの夜襲をうけて混乱し敗走しました。
母里武兵衛も、前の戦いで7か所の傷を受けていましたが、その傷を押して戦い、奮戦の末に7本の槍に貫かれ壮絶な死を遂げたと言われています。
この戦いにおいて、官兵衛は、叔父の井出友氏、傅役(もりやく)であった母里小兵衛、そして幼馴染の母里武兵衛など股肱の臣を多数なくしてしまいます。
母里一族は、この戦いで24人もの戦死者を出し、後を継ぐものが居なくなってしまいました。
そこで、母里家が絶えるのを惜しんだ官兵衛が、母里家を継がせたのが母里太兵衛です。