それは兵庫県龍野市です。ここに本社を置く醤油醸造メーカー「ヒガシマル醤油」は関東での知名度はイマイチですが、キッコーマン、ヤマサ。ヒゲタに続く第4位の生産量を誇ります。
龍野周辺の播州平野では品質の良い播州小麦がとれ、隣接する佐用(さよう)郡と宍粟(しそう)郡では三日月大豆と呼ばれる良質の大豆が生産されます。さらに有名な赤穂では良質な塩が生産されます。そして、町の東側を流れる揖保川は、その水が醤油生産に大変適しているとともに出来上がった醤油の運搬に好都合でした。
龍野で作られる醤油は、「うすくち醤油」です。
すでに述べましたが、「うすくち醤油」の製造工程は、「こいくち醤油」の製造工程をほぼ同じで、大豆と小麦を同量ずつ合わせて麹を作り、食塩水で仕込みます。「うすくち醤油」は、さらに甘酒が加えらる点が異なります。龍野の醤油は、天正15年(1587)円尾屋孫右衛門、天正18年(1590)栗栖屋横山五郎兵衛に よってはじめられたとされています。
また、天正年間に、播磨国守護大名赤松一族の家臣片岡治兵衛が、龍野で幾久屋(きくや)の屋号で醸造を始めたとされています。
そして、 寛文6年(1666)円尾(まるお)孫右衛門によって「うすくち醤油」が考案されました。
寛文12年(1672)に龍野藩主脇坂安政が、信州飯田から龍野に転封となりました。
脇坂安政は、醤油醸造業の保護育成に力をいれるとともに、歴代龍野藩主も、醤油業界を保護しました。
「うすくち醤油」は京都の精進料理や懐石料理に用いられるうち更に洗練されたものになり、甘酒をもろみに加えることが考案されました。
「うすくち醤油」は、京料理に適することから京都での需要が伸びました。
そこで、円尾家では、延享3年(1746)に京都店を開設し、京都への販売を強化しました。
こうした龍野醤油の京都進出が成功した背景には、安永9年(1780)に京都奉行所が、京都以外からの醤油の流入を公認したことがあります。
また、龍野藩9代藩主脇坂安宅(やすのり)が、嘉永4年(1851)、京都所司代となり、京都、大阪へ販路拡大に尽力した結果、京阪市場でのうす口醤油の利用が一層広がりました。
明治になると、北龍野村の商人因幡屋浅井弥兵衛が龍野藩の醤油製造所「物産蔵」を明治 2年に払い請け、淺井醤油が創業されました。
浅井醤油は、「物産蔵」は藩の川東(かわひがし)蔵として東ノ丸と呼ばれていたことなどから商標をヒガシマルにしました。
明治26年には菊屋11代片岡治助が「菊屋(幾久屋)」を改め、「菊一醤油造合資会社」を設立しました。
そして、昭和17年に淺井醤油と菊一醤油が合併し、龍野醤油株式会社が設立されました。
龍野醤油株式会社は、昭和39年、社名をヒガシマル醤油株式会社に変更し、現在にいたっています。

