竹中半兵衛から 播磨を諸勢力を織田方にさせて策を尋ねられ、官兵衛は御着城の小寺氏、三木城の別所氏、龍野城の赤松氏を信長に拝謁させてみますと答えます。
随分、大きなことを言ったものだと思います。
そして、官兵衛の説得により、小寺、別所、赤松の播磨三大勢力が織田信長に一緒に拝謁させることが実現できました。
こんなストーリーのようです。
さて、今日は、三木城の別所氏について、少し触れておきます。
別所氏は、播磨の守護大名・赤松氏の庶流であり、当主が赤松宗家出身者であることもしばしばあったようです。室町時代後期、赤松宗家が衰えてくると、別所氏中興の祖と言われる別所則治は三木城を築き、独立色を強めていきます。
別所則治は、東播磨八郡に勢力を拡大し、播磨国の有力大名にまで成長していきます。
今日出てくる別所長治は、則治の孫になります。
元亀元年(1570年)、父・安治がなくなったため、家督を継ぎますが、まだ12歳という年でしたので、叔父の吉親・重宗が後見していました。
別所安治も勇猛な武将でしたので、則治の築いた勢力圏を維持しており、織田信長が台頭してくると信長とは誼を通じていました。
そのため、別所長治も、織田方に加勢することとしました。
ここらあたりまでが、今回の「軍師官兵衛」です。
この後、別所長治は、播磨に進駐してきた秀吉を快く思わなかったため、信長に反逆することになります。
これにより、東播磨の諸勢力も、反織田となり、播磨で大きな混乱が生じます。
そして、別所長治は、2年間、三木城に籠城し抵抗しますが、秀吉の「三木の干し殺し」によって滅亡することになります。
これらは、今後、「軍師官兵衛」の中で描かれることでしょう。
さて、今日はちょっとページが余りましたので、「戦陣食(せんじんしょく)」について触れたいと思います。
武士が戦場に持って行く食べ物を戦陣食といいます。
戦場での食糧は戦争の勝敗を決める非常に重要な要素でした。
大軍を動かす時には兵量を輸送する部隊が編成され、「小荷駄隊(こにだたい)」と呼ばれました。
小荷駄隊を重要視した代表は武田信玄だといわれています。少人数で動く場合には、各人が腰にくくりつけた筒状の袋に「握り飯」や「干し飯」をいれて運びました。
これを「腰兵糧」と言いました。
しかし、握り飯は日持ちがしないので、竹の皮で包んだり、両面を焼いたり、梅干しを入れたりして、日持ちをよくする工夫がされました。
干し飯は蒸した飯を干したもので、湯水で戻して食べました。
その外、焼き米や餅なども持っていきました。
こうした主食のほかに、味噌や塩も欠かせませんでした。
味噌は、焼き味噌、玉味噌、干し味噌など、長持ちするように工夫されていました。
さらに、鰹節、干魚、塩魚なども利用されることもあったようです。

