江戸の食文化で、「酢」と大きな関係があるのが「握り寿司」です。
江戸における「握り寿司」の拡大にあたって大きな役割を果たしたのが「粕酢」です。
粕酢というのは、酒粕を材料として製造された「酢」です。
この粕酢は、酒作りの副産物である酒粕を原料としたため、コメから直接作った米酢よりも安価でした。
また、粕酢の風味や旨味が「早すし」にマッチしました。
そのため、この酒粕酢が、食酢を使った寿司の普及に一役買ったと言われているのですす。
粕酢を考案したのは、大手メーカーの「ミツカン」の創業者初代中埜又左衛門です。
初代中野又左衛門は宝暦6年(1756年)に小栗喜左衛門家の長男として誕生し、20歳の時に半田村の有力な酒造家であった中野半左衛門家に、幼い後継者の後見人として、養子に入りました。文化元年(1804)、後継者の成長を見届け、正式に分家を許された又左衛門は、その年の秋、江戸で、「半熟れ」と呼ばれ、酢を一部加えて発酵を早めた押しずしの一種に出会いました。
これをきっかけに、又左衛門は、酒粕を原料とした「粕酢」の製造を始めました。
江戸で「半熟れ」を食した又左衛門は、「粕酢」の甘みや旨みが合うと確信し、半田に帰ると、さっそく江戸での大量需要を見込んで、本格的な酢造りをスタートさせたのです。
しかし、当時にあっては、酒造家が酢を造るということはまったく考えられないことでした。
酒の失敗作が「酢」であったため、酒造家にとって、「酢」は容認しがたい製品でした。、しかし、そんなタブーに挑戦して、初代又左衛門は粕酢造りに取り組みました。
そして、できあがった「粕酢」を、酒で培われた知多の海運力と販売ルートを活かして、江戸に送り込みました。
そして、やがて、「粕酢」江戸の多くのすし屋で使われるようになりました。
二代又左衛門は、初代の希望もあって、当初から酢造りに専念し、粕酢の製造、販売を大きく伸ばし、今日のミツカングループの基礎を確立しました。
また、二代目は、酒粕を3年間熟成させた最上級の酢を「山吹」と命名し、江戸への専売品として売り出しています。
慶応3年(1867)、三代目が死去し、13歳の少年であった四代又左衛門が跡を継ぎました。
四代目は若い頃から「易学」に強い興味を示していたといい、その影響から、「中野」の名字を、現在の「中埜」に変えたといわれています。
また、ミツカンマークを使い始めたのが、四代目でした。
ミツカンのマークは、中埜家の家紋に、易学の理念「天下一円にあまねし」という意味を込めて、○を三の下に付けたものです。

