「命」をかけるのは、官兵衛ではなく、秀吉です。
秀吉は、播磨への出陣を信長に望みますが、信長包囲網が出来上がっている中で、秀吉を播磨に出陣させる余裕が信長軍にはありません。
越後の上杉謙信も、反織田包囲網に加わり、北国から織田方を攻撃しようとします。北国を任せられているのは柴田勝家です。柴田勝家は織田家譜代の家柄で、成り上がり者の秀吉とは犬猿の仲です。
織田信長は、そんな関係を承知したうえで、秀吉を柴田勝家の与力として、北国に出陣させます。
しかし、元々仲の悪い二人の間がうまくいくはずがありません。
秀吉は、無断で陣を払って、長浜に帰国してしまいます。
戦線離脱は厳罰ものです。当然、秀吉は、最悪の場合は切腹を命じられる覚悟をします。
そこで、信長に対する叛意はないことを明らかにするため、長浜でどんちゃん騒ぎの宴会を催します。 これが「命かげの宴」です。
こうした策が効を奏して、秀吉は、信長から許されたばかりでなく、播磨に出陣を命ぜられます。
いよいよ、次回から播磨での秀吉と官兵衛の戦いが始まります。
さて、今回は、高山右近が登場しますので、高山右近について触れておきます。
黒田官兵衛は、キリシタンでした。
黒田官兵衛が、キリシタンになるよう勧めたのが高山右近なのです。
高山右近は、天文21年(1552)、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。
12歳のときに父親飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け、「洗礼名ユストもしくはジュスト」と名のります。
右近と父高山飛騨守は、元亀4年(1573)に主君であった和田惟政(これまさ)の子供惟長を高槻城に攻め、惟長を追放した後、高山右近が高槻城主となりました。
高槻城の戦いの際に、右近は首を斬られ、生死の境をさまよった後奇跡的に回復しました。
これにより右近は一層キリスト教への信仰を深めたと言われています。
天正6年(1578)、荒木村重が織田信長に反旗をひるがえしたとき、右近は荒木村重に味方しますが、信長は右近が信長に降らなければ、宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅しました。
このため、右近は信長に投降し、荒木村重の反乱が治められた後、右近は高槻城主として領地を安堵されました。
本能寺の変で信長が倒れた際には、明智光秀からは高山右近が味方となることを期待されていましたが、右近は秀吉につき、山崎の戦いで光秀と戦いました。
天下を取った秀吉は、しばらくの間、キリシタン保護を継続していたため、右近はキリスト教の布教に力をいれ、多くの武将にキリスト教への入信を勧めました。
その中で、黒田官兵衛も洗礼を受けて、キリスト教に入信しました。洗礼名は「ドン・シメオン」と言いました。
しかし、天正15年(1587)、秀吉はバテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫りました。
しかし、右近は棄教を拒否したため、明石城を没収され追放されました。
その後、右近は、前田利家から金沢に招かれ、ここで「南坊」と名乗って、茶道に没頭しました。 右近は、茶道にも優れていて、利休七哲の一人でもあります。
慶長17年(1612)、ついに徳川幕府はキリシタン禁教令を発布されました。
キリスト教を棄てない右近は国外追放とされ、慶長19(1614)年、家族とともに長崎からマニラへ向かいました。
そして、マニラ到着後、まもなく、病気にかかり、64歳の生涯を閉じました。
右上写真は、高槻城跡に建つ碑です。

