今回の「軍師官兵衛」は、羽柴秀吉が播磨に入国し、その後、毛利方の福原城を攻めるまでが描かれそうです。
天正5年10月19日、羽柴秀吉は、1万5千の軍勢を率いて播磨に入りました。
秀吉は、播磨に入って、通常であれば、御着城に入城するところですが、黒田官兵衛が城主である姫路城に入城しました。
現在の姫路城(右写真)は、世界遺産にも登録された日本を代表する名城ですが、当時は、御着城の支城の一つで、砦に毛の生えた程度の小さなお城でした、本来入城すべき御着城ではなく姫路城に入城したのは、小寺政職の去就がはっきりしなかったためであると考えられています。
小寺政職は、官兵衛の説得により、織田方に味方していますが、信長との謁見をためらったり、人質の提供を引き延ばし最終的には人質を出しませんでした。
こうしたことからわかるように小寺政職は、織田方に心底から味方していたわけではありませんでした。
そして、官兵衛の同僚である小寺家の重臣たちの中には、官兵衛のことを快く思わない人たちもいました。
こうしたことから、黒田官兵衛としては、羽柴秀吉を御着城に迎え入れることが難しい情勢でした。
そのため、姫路城に迎え入れざるをえなかったものと考えられています。
黒田家譜によれば、官兵衛は、秀吉が姫路城に入城すると、それまで、自分が住んでいた二ノ丸を秀吉に明け渡し、姫路の城下の屋敷も秀吉の家来に渡しました。
その後、本丸の工事が完了した後、秀吉が本丸に移り、二ノ丸に官兵衛が住むように言い渡され、官兵衛が再び住むようになったと言います。
後半部では、福原城攻めが描かれるようですので、福原城についても触れておきます。
播磨国は、東播磨と菱播磨に大きく分けられます。
そのうち、東播磨は、有力大名の三木城の別所長治と御着城の小寺政職が織田方となっていたため、秀吉が姫路城に入城した時には、織田方の勢力圏にありました。
しかし、西播磨は、龍野城の赤松広秀が織田方であるものの、毛利領に近いという地理的な要因もあり、毛利方の勢力下にある多くありました。
その中で、福原城と上月城は、秀吉としては落さなくてはならないお城でした。
当時、福原城は、福原助就が守っており、バックには備前の宇喜多直家がいました。
この福原城の戦いで、黒田官兵衛は、三方から攻めて、あとの一方を逃げ道として開けておくという戦術をとったと言います。
そして、その逃げ道を逃げてくる敵将福原助就を討ち取ったと言います。
いかにも「軍師官兵衛」の面目躍如といったところでしょうか!!

