上林記念館には、いろいろな展示品がありましたが、その中で特に興味を引いたものが御茶壺道中の駕籠と壺です。(右写真ご参照)
御茶壺道中と言うのは、童謡の「ずいずいずっころばし」で「茶壷に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ」とうたわれていますので、多くの方がご存じだとは思いますが、駕籠や壺は見たこと方は少ないだろうと思います。
私も初めて見ましたので、今日は、そのお話をしようと思います。
御茶壷道中というのは、将軍家で使用されるお茶を宇治から取り寄せる際に行われた行列のことです。
正式には「宇治採茶使」といい、寛永10年(1633)から慶応2年(1866)まで、毎年続けられました。
御茶壺道中は「摂家・門跡と行き合うと同じく、大名行列といえども道をあけて遅滞なく通すこと」とされ、たいへんな権威のあるもので、紀伊、尾張、水戸をはじめとする大名行列も御茶壷道中には道を譲らなければならなかったといわれているほどでした。
御茶壺道中は、毎年4月下旬から5月上旬のうちに江戸を発ち13~14日かけて宇治に到着しました。
行列は徒歩頭一人が宰領となり、茶道頭(御数寄屋頭)一人、茶道衆(茶坊主)二人と若干の徒歩衆・同心衆を伴うものでした。
上林家は、幕府より道中の総責任者「茶頭取」を仰せつかっていました。
時代が下がり、運搬する御茶壺が増えるとともに警護役人の人数も増えていきました。
そこで、8代将軍吉宗は、質素倹約の精神から、享保8年(1723)江戸から宇治に運ぶ茶壺を3個に削減し、徒歩頭の道中宰領も廃止し、往路は二条城大番に任命されて赴任するものを宰領として、さらに帰路は大坂城から帰任する大番に警護させることとし御茶壺道中を簡素化しました。
また、上林春松さんのお話では、簡素化は一層進み、江戸から運ぶ御茶壺も廃止され、江戸に運ぶ御茶壺は、信楽焼の壺を宇治で調達することとなったということでした。
そして、御茶を入れた御茶壺は、江戸城に納め、翌年は新たに茶壺を調達しました。
そのため、御茶壺が宇治に残されているというのは非常に珍しいそうです。
展示は御茶壺が裸で展示されていますが、実際の御茶壺道中では、2段目写真のように茶壺は外箱に収められ、さらに三段目写真のように厳重に梱包して輸送したようです。
上林春松館長のお話では、雨の日は雨除けを掛けて輸送したとのことでした。
コカコーラで販売している「綾鷹」というお茶があります。
この「綾鷹」は、上林春松本店の高級玉露の名前に由来しているということを、上林春松本店にお邪魔して初めて知りました。
「綾鷹」をよく見ると、しっかり「上林春松本店」と表示されていますね。
「綾鷹」の名は、“貴重な茶葉“という意味で使われていた歴史のある「鷹」の文字と、貴重で上質な茶葉を”織り込んだ“という意味を「綾」の文字が表しているようです。