福原城と上月城の陥落で一旦平定された播磨が、織田方だった三木城の別所長治が叛旗を翻すことなり、再び播磨は戦乱の地となります。
この別所長治の叛旗について、史書でも、大河ドラマで描かれていたように加古川評定でやりとりが切っ掛けとなったと書いているようです。
三木城の別所長治は、まだ若年であったあったため、別所賀相(よしすけ)と別所重宗の二人の叔父の後見を受けていました。このうち、別所重宗はもともと織田支持でしたが、別所賀相はもともと毛利方でした。
こうした関係の中で行われた加古川評定で、秀吉別所賀相と秀吉の意見が食い違いが出ました。
その時の秀吉の態度が高飛車で聞き耳をもたなかったことが要因であったとされているようです。
また、別所家が織田支持に固まっていなかった背景として、別所家の中に「織田信長は信用できず、別所家は使い捨てられるだけだ」という不信感があったようです。
そうした情況の中で、毛利家からの働きかけがあったため、加古川評定の不調を切っ掛けとして、別所家は、反織田となったようです。
右写真は、加古川評定が行われた加古川城跡に建立されてている称名寺(ウィキペデイアより)です。
東播磨の一大勢力であった別所長治が叛旗を翻したのに呼応して、東播磨の城主たちが一斉に叛旗を翻すこととなり、秀吉は、その平定に2年を要することとなります。
そして、その中心となった三木城攻防戦は、食糧攻めを中心としたため、いわるゆ「三木の干殺し」と呼ばれる戦いとなりますが、それらのお話は、今後の展開となります。
冒頭で、天正6年正月の茶会の様子が出ていましたので、それについても触れておきます。
この茶会に参加したのは、「信長公記」によれば、織田信忠、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、荒木村重、羽柴秀吉、細川藤孝など12名だったそうです。
信長は、茶の湯を家臣団統制の一つをとして利用していました。そのため、この茶会に出席できるというのは、特別の意味があったようです。
同様に、信長から茶器を与えられるということは、特別の意味がありました。
ですから、秀吉は、信長から名物茶器「乙御前の釜」を与えられ非常に喜んだわけです。
当時、柴田勝家が「姥口の釜」、丹羽長秀が「白雲の葉茶壺」、明智光秀が「八重桜の葉茶壺」を信長から与えられていました。
いずれも錚々たる武将たちです。
秀吉が、名物茶器を与えられたということは、これらの人たちと同様に信長から高く評価されたということになります。
秀吉が大喜びするはずです。

