日本では、元々山間部の奥地に自生していた「山茶(さんちゃ)」を飲んでいたという説もあるようですが、日本においてお茶がいつ頃から飲まれていたについては明確にはわからないようです。

お茶を飲んだということが、史料としてハッキリしているものは、平安初期に編纂された『日本後記』に、「弘仁6年(8158)に近江の梵釈寺に行幸した嵯峨天皇に、その寺の大僧都(だいそうず)であった永忠がお茶を煎じて奉った」と記述されていることだそうです。
これが、わが国におけるお茶の喫茶に関する最古の史料といわれていますが、実際には、これ以前からお茶は飲まれていたと考えられています。
しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの上層社会の人たちだけが口にすることができるだけで、一般庶民には手が届かないものでした。
日本におけるお茶の歴史に大きな足跡を残したのは臨済宗の開祖栄西禅師です。

栄西は、平戸や佐賀県の背振山で茶の実を播いたと伝えられています。
また、栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を書いていますが、これが、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれています。
当時のお茶は、蒸した茶葉を揉まずに乾燥させ、それを粉末にして飲むという、現在の抹茶製法と同じような製法で作られお茶だったようです。
その後、京都栂尾高山寺の明恵上人(みょうえしょうにん)が栄西より茶の種子を譲り受け栽培し、栂尾はお茶の栽培の中心地となりました。
そして、それが宇治に伝わり、宇治でも茶の栽培が始まりました。
鎌倉時代の末期には、お茶を飲み比べて産地をあてる「闘茶」という遊びが起こっています。
この頃には、お茶は宇治でも栽培されるようになりましたが、「本の茶とは栂尾なり、非というは宇治茶の事なり」と呼ばれ、栂尾に劣っていたそうです。
「丸久小山園」では、「栂尾は本茶と呼ばれ、宇治は非茶と呼ばれました」と説明してくれました。
しかし、やがては、宇治のお茶が量質とも勝るようになります。
そして、室町時代末期には、村田珠光、武野紹鴎によってお茶の礼式が整えられ、安土桃山時代に、お茶は、「茶道」として千利休により完成されました。
江戸時代に入って、お茶も新たな発展がありますが、それについては、明日書きます。